人類を「エリート」と「落伍者」に分ける社会が訪れる

「この両者の価値観の共存は難しいため、AI+VC型の社会についていけなくなった人は、AI+BI型の社会に移住して余生を過ごすことになる。市場の拡大を目指す人間と、市場拡大の恩恵をゆるやかに受ける人間が、明確に分けられた世界だ」

エリートは新しいテクノロジーへと挑戦していくことを選び、それができずに落伍らくごしてしまう人はベーシックインカムをもらって「余生を過ごす」。エリートと「その他大勢」がそうやって二極化していく社会のビジョンを落合さんは描いている。これを東さんは強く批判している。

「ぼくにはこの未来社会像はあまりに夢想的すぎるように思われるし、そもそも実現するとしても悪夢にしか思えない。それは人類を選良とそれ以外に分ける社会像にほかならないからである」
「しかも厄介なことに、落合は同書で、デジタルネイチャーは人類をまさにそのような古い道徳観や倫理観から解き放つものなのだと主張し、そんな懸念を振り払ってしまうのである」(「落合陽一、ハラリは『夢想的で危険』東浩紀が斬る“シンギュラリティ”論に潜む“選民思想”」東浩紀、『文藝春秋』二〇二二年五月特別号より)

これはとても重要な議論である。これ以上テクノロジーが進化すると、落合さんの言うように社会はエリートと落伍者に分かれてしまうのだろうか。東さんの言うように、それは悪夢なのだろうか。

それとも、テクノロジーは進化しても社会が悪夢にならない「第三の道」はあり得るのだろうか?

否定するのではなく、どう使いこなすかを考える

少なくともいえるのは、テクノロジーの進化は決して止まることはないということだ。過去の人類史を振り返っても、それは明らかである。ひとつの文明が滅んでしまったことで、そこで使われていたテクノロジーが失われてしまうことはある。古代ローマに張りめぐらされていた上水道テクノロジーはその典型だ。しかし文明が持続する限り、テクノロジーはつねに進化し続ける。とくに民主主義の社会ではそうだ。

佐々木俊尚『Web3とメタバースは人間を自由にするか』(KADOKAWA)

だからわたしたちが住んでいるこの二十一世紀の社会が崩壊でもしないかぎり、AIやロボットの技術が退化してしまうことはないだろう。そうであればテクノロジーを否定するのはあまり意味がない。どうテクノロジーを使いこなすのか、テクノロジーをどう手なずけるのかという「第三の道」を考えていくほうが建設的ではないだろうか。

現在のAIの進化とテクノロジーによる「支配と隷従」は、エリートと一般人に社会を分断し新たな階級社会をつくっていこうとしている。しかし逆に新しいテクノロジーによって、そのような階級社会の誕生を阻止することはできないのだろうか?

それがわたしが上梓した『Web3とメタバースは人間を自由にするか』のテーマである。

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