反乱者を挑発→弾圧して「見せしめ」

が、それだけで足りず幕府は時折、大名や旗本や浪人や庶民を挑発した。つまりこんながんじがらめの社会制度の中で、これでもかこれでもかと人間一人ひとりの自己主張や人格尊重欲を抑圧するような政策をとれば反発する人間も出てくる。

しかし幕府はそういう反発をすべて抑え込もうとして制度を厳しくしているわけではない。固い教育をしているわけではない。

ときには、「反乱者が出たほうがいい」と思っていた。鎮圧を大々的にPRして弾圧の実績が示せるからである。これにひっかかって由井正雪や多くの浪人たちが乱を起こした。島原の乱も考えようによってはその例だ。抑圧と疎外に対する反抗心の爆発である。

が、幕府はすでに強大な武力と権力を持っていたから、ものの見事にこれを鎮圧していよいよ幕府の勢威を固めた。

これは生きた国民へのテキストであった。日本人はこういう実例を次々と見せられて、大名も旗本も浪人も庶民もすべて抵抗心という牙を失っていった。皆丸く摩滅していったのである。徳川時代の太平はそれで保たれた。

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足を引っ張りあう評価システムを確立

戦国時代と違って太平時代の業績評価は、やはり民をどのように平穏に治め、また幕府をどのように富ませ、いかに大過なく毎日を過ごせるか、そういう施策をおこなった人間が優遇された。

つまり人間を「小さく小さくなあれ」の境地に追い込み、また無事大過なく日常が過ごせるような連中が最も高く評価された。

ことを起こす人間は嫌われた。出る杭も必ず打たれた。後世のお粥社会が巧妙に形成されていった。

業績評価は鍋の中で煮られてアイデンティティを失ったふにゃふにゃのお粥たちがおこなうそれであった。お粥は米粒を嫌った。だから米粒が握り飯になるとすぐみんなで寄ってたかって足をひっぱった。徳川社会というのは、汁の中に権限と責任を吸いとられたふにゃふにゃの米粒の社会であった。

したがって業績評価は、

「無事大過なく生涯をまっとうできるかどうか」

という物差しによって判断されたのである。