効率化して良いものと悪いものがある

こういう現状を確認すれば、「PTAの外注はいかがなものか?」という問いは、その「どこを」問うているのかをクリアにさせなければならないだろう。そうでないと、「無理して非効率なことを恨みと苦しみを抱えてやって、負のオーラをまき散らかされるより、結構な額の会費予算を有益に活用するほうが良い」という大ざっぱな話に回収されてしまうからだ。

だから問うべきものを切り分けなければならない。それはPTA活動の各種活動の「個別のスキルの向上や補助」という課題と、PTAという団体の「運営のやり方」の技法との区別である。それは次のような問いへとまとめられるだろう。

メンバーの意見によく耳をそばだて、“当事者”意識を手放さず、この地域で暮らす保護者と一緒に、子供と学校のサポートをあくまでも“自分たちで決めて”自治運営していくことそのものを、地域や生活と無関係な企業に丸投げしていいのか否か?

政治になぞらえれば、「選挙の時の投票を用紙にするのか電子投票にするのか?」という問題と、「社会を維持するために集める税金の額を、隣国政府に決めてもらっていいのかどうか?」とは、根本的に異なる次元の問題である。われわれは果たして「政府の運営(安全保障も含めて)は隣国の方が長けているから、外注でお願いしましょうか?」という問いを立てるだろうか? 戦闘機はアメリカから買うが、それを飛ばす決定は自分の政府がやるのが普通の国というものだ。

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効率化すると「そこに人が集まる理由が消滅」してしまう

日々の活動に必要な外注もの以外に、私たちは「これを外注してはツマラナイものになっちゃう」というものがある。それは各種の「手作りイベント」である。「手作りなんてウザいから、定番っぽいもので十分」という切羽詰まった保護者の心もあるだろう。

しかし、PTAの大切さの一つは、PTAという人々の参集が「地域に根差した何か」を体現していることだ。業者がお仕着せで提供してくるコンテンツとやらを、学校不在、子供不在、保護者も地域も不在で購入してみせてあてがうと、必ず失われるものがある。それは、「人々が参集する理由」だ。

要するに、効率を追求していく先の先には、もう人が集まる理由がなくなるのだ。サービス提供をしてくれるのに、余計なことをしてはいけないという気持ちが働くからだ。その分のお金は払っているんだから、こっちにはやることはないと。