「クソどうでもいい仕事」が生まれる根本原因
「巷では、多くの人々が働くことに違和感を抱いているようですね。『ブルシット・ジョブ』(クソどうでもいい仕事 文化人類学者デヴィッド・グレーバによる言葉)などという言葉が話題になって、何の意味も見出せない『空疎な労働』が増え続けているというわけですね、もはや、それは私の定義では、『労働』ですらない『苦役』ですが」
「その背景にあるのは、資本主義のシステムの下で、企業間の競争の激化による効率化を求めるあまりの過度な分業の論理が、この第三次産業主体のポスト産業資本主義=サービス業やソフト開発主体の仕事にまで及んでいるからではないでしょうか?」
今度のマルクス先生の標的は、「分業」らしい。
「分業は、類的存在としての人間の活動の疎外形態を生み出す危険性を大いに持っているものなのです。本来、労働それ自体は人生にとって、生きるエネルギーを生み出すことに直結するような、生存に対して過不足なく必要な、豊かな営みであるはずです。その豊かな営みである労働は、人間が自分で考える構想の作業、すなわち『精神的労働』と実際に自らの身体を動かして行う実行の作業、すなわち『肉体的労働』が統一されたものだったはずなのです」
「しかし、どうでしょう……。今の世の中を眺めてみると……。商品を生むプロセスが細分化していくにつれて、あるいは会社組織が強固になっていくにつれて、この構想(精神的労働)と実行(肉体的労働)が分離され、資本家が構想を独占し、労働者が実行のみを担うことになっているのではないでしょうか? さらに、分業に慣れて日々単純な作業を繰り返すことを強いられる労働者は彼の知性を行使する機会を奪われ、結果的にいよいよ精神が毀損され、どんどん愚かになっていってしまっているのかもしれません。構想と実行の分離の背景に、この現代的な分業があるとしたら、なんとも皮肉でおかしな話です」
悪いのは分業なのか
「そして、アライさん、あなたのようなケースはさらに複雑です」
マルクス先生は少し顔をしかめ、軽いため息をついた。
「私は疎外とは、分業の結果、『精神的労働』から引き離された『労働者』において起こるものだと考えていました。しかしながら、どうやら話を聞いていると、ある意味『肉体的労働』から引き離された『小さな資本家』であるあなたにも疎外は起こっているようですね。現代的な分業は、私が想定していた以上に『労働者』だけでなく、『資本家』にも疎外を生み出し得る、実にねじれた性質をもっているようです。やはり、分業を基軸とした資本主義のシステムは根本的に誤っているのです。疎外を解消し、より人間らしい労働を取り戻す為にも、私たちはこの分業の壁を乗り越えねばらないのではないでしょうか? みなさん?」
アライさんが頷き、多くの参加者も一呼吸あってそれに続いた。悪いのは「分業」なのか? そんな空気が支配しそうなところで、暗がりから一人の老紳士が現れ、つぶやいた。
「少し早合点が過ぎるのではないでしょうか? マルクス先生。」
発言の主は……、アダム・スミス先生だ。次のステージでは、「経済学の父」と「資本制の限界」を説いた巨人による、現代の「分業」とその本来の可能性をめぐる議論が始まる。