学校教育で、排便に対するまっとうな認識を育む
いま、排泄行為に関して学校で教育すべきは「学校で便意を催したらすぐにトイレに行きなさい。授業中でも手を挙げて『先生トイレ!』と言いなさい」「排泄は人間にとって当たり前の行為。それをバカにしたり、邪魔をしたりするのは人としてとても恥ずかしい」ということである。いや、すでに教育しているのかもしれないが、まだまだ不十分だろう。「排泄を軽んじる者、人にあらず」くらいの強さで徹底的に諭すべきだ。
私が小学生の頃は「先生トイレ!」と言おうものなら、「私はトイレではない! 授業を聞きなさい!」「まったく……休み時間まで我慢できないの?」などと怒ったり、あきれたりする教師がざらにいた。こうした意識がいまの教育界でどれほど変わったのかはわからないが、子どもの健やかな成長と、排便に対するまっとうな認識を育むために、「排泄は穢れでも、恥ずかしいことでもない」と積極的に話題にしてほしいものだ。
そうした教育をしっかりと受けた子どもであれば、大人になったとき、バスの乗車中にためらうことなく「トイレに行きたいので、停めてください!」と大きな声で伝えたり、会議中であっても「すみません、もう我慢できません」とトイレに走ったりできるような、排便する自由を主張できる人材になるはずである。
排便に対する意識は、コロナ騒動にも通じる
ここまで、排泄に対する日本人の意識について考えてきたわけだが、すでにお気づきの方もいることだろう。そうした日本人の価値観は、新型コロナに対する反応にも相通じている。2年9カ月にわたるコロナ騒動を経て、日本人の潔癖さはさらに強化され、もはや病的と評しても過言ではないレベルになっているのかもしれない。
他人が発する飛沫に対して過度に敏感になり、いつまでもマスクを外せない日本人。そうした日本人の行動様式や価値観を支える「病的な潔癖さ」は、排泄に対する姿勢にも確実に表れている。
この病的なマインドは、さっさと変えなくてはいけない。排泄に関する意識改革については、コロナ騒動後期に見られた「ヨソ(外国)はヨソ、ウチ(日本)はウチ」という姿勢ではなく、騒動初期の「海外を見習え!」状態になることが必要だろう。
・排泄行為は自然現象。「穢れ」や「恥」として忌避する姿勢はナンセンス。
・清潔志向が過度に高まってしまい、現代の日本人はもはや「潔癖モンスター」のような精神性を抱くまでになってしまった。
・排便に対する日本人の感性は、そのままコロナ騒動においても発揮されたのではないか。
・学校教育で排便の尊さ、排泄行為を揶揄したりする姿勢の愚かさを徹底機に教えるべきである。