もうひとつは、有力者からの献呈である。
もちろん、献呈される前は、商人から購入されるか、あるいは戦争や略奪によって奴隷となった者だったろう。大宰相など有力臣下は、手持ちの女奴隷のなかから、選りすぐりをスルタンに献上した。その対価として恩恵を受けることが目的であったが、女奴隷が出世したあかつきには、彼女は宮廷との重要なパイプ役となりえたはずだ。
また、母后や王女たちも、しばしば子飼いの女奴隷をスルタンに献上している。クリミア・ハン国やジョージア王国から、外交の贈り物として奴隷が献呈されることもあった。
イタリア系からギリシア系、ロシア系も
イスラム法では、ムスリムを奴隷とすることは許されていない。そのため、奴隷はすべて非ムスリムに限られている(奴隷となったのちにイスラムに改宗するのは可能である)。また、非ムスリムであっても、帝国臣民を奴隷とすることは許されなかった。そのため奴隷は、基本的に帝国外の非ムスリムから供給された。
ハレムに入る女奴隷の出自としてまず挙げられるのは、ギリシアやイタリアなどの地中海出身者である。たとえばムラト三世の母后ヌールバーヌーはイタリア系であり、ヴェネツィア船に乗っているところを海賊に捕らえられ奴隷となった。またムラト四世の母后キョセムは、エーゲ海の小島の出身でおそらくギリシア系であったが、襲撃にあって奴隷になったのである。
また、ロシアやウクライナなどの北方出身者も多い。黒海北岸に勢力を広げたクリミア・ハン国は、これらの地域を略奪して、獲得したスラヴ系の奴隷をオスマン宮廷に献呈していた。スレイマン一世の寵姫ヒュッレムや、メフメト四世の母后トゥルハンは、そうした出自である。
時代とともに変化した奴隷の供給源
しかし、17世紀には、奴隷の供給源に変化が見られた。オスマン帝国の地中海方面での征服活動が停滞したこと、そしてクリミア・ハン国が台頭するロシアに押され活動範囲を縮小していったことが、その原因である。それに代わって、コーカサス地方からの奴隷が徐々に増加していった。
カスピ海と黒海に挟まれたこの狭隘な地域には、ムスリムではあるが、自民族のなかで奴隷を用いる慣習が根付いているチェルケス人が居住しており、重要な奴隷の供給源となった。おなじくコーカサス地方に住むムスリムのアブハジア人、そしてキリスト教徒のジョージア人も、やはり奴隷の供給源となった。18世紀以降、ハレムに入る女奴隷のほとんどは、コーカサス地方の出身となる。
女官のなかには、少数ではあるが黒人もいた。彼女たちはカイロからイスタンブルに送られたというから、もともとの出身地は、男性の黒人奴隷と同様、エチオピアやスーダンだったはずだ。彼女たちは、白人奴隷の女官に比して、重労働に従事することが多かったという。