「政治家as a Service(政aaS)」のようなソフトウェアが生まれるのはほぼ必至だと思われる。その小さな芽をすでにいくつか見てきた。

実際、権力拡大のためには手段を問わず、世論の風向きに年中無休で細心の注意を払う政治家という生き物は、一貫した信念や情熱を持って後悔や悩みを引きずり生活する人間よりも、必要とあらばいつでも颯爽とソフトウェアアップデートをするテスラの車か何かに近い。

「彼があっさり自分の信念の旗をひるがえして別の旗を颯々としてかかげるには、一日もあれば、時にはたった一時間でも、時にはたった一分間でもことたりる。彼は理想に殉ずるのではなく、時代と歩調を合わせるのであって、時代の変転が早ければ早いほど、それだけスピードを出して時代を追いかけるのである」(シュテファン・ツワイク『ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像16』)

であれば、人間が無理をして誹謗中傷に晒されながら身も心も粉にして政治家という機能を果たすより、無意識民主主義ソフトウェアのアップデートに委ねる方が楽なのではないだろうか?

拒否権を発動するユルい存在になる

ソフトウェア・アルゴリズムには嫉妬や粘着も戸惑いもなく、無駄に心をすり減らす必要もない。毎分更新される民意データにしたがって「あっさり自分の信念の旗をひるがえして別の旗を颯々としてかかげ」るだけである。

絶えずソフトウェアアップデートされる無意識民主主義における人間の政治家や官僚の役割は、大筋ではアルゴリズムの推薦に言われるがままに動き、いざとなったら拒否権を発動するくらいのユルい存在になっていく。突飛な話ではない。

高頻度取引アルゴリズムに任せておいたら相場のフラッシュクラッシュが起きて、血の気が引いて急遽人力で介入をはじめるトレーダーたち。ダイエットアプリにしたがって糖質・脂質制限をしているが、ときどき深夜にアイスをドカ食いしちゃう今の私たち。そんな今すでにある存在の延長線上にすぎない。

人間の政治家でも責任は取れない

こうした話をするとよく出るのが「ネコやアルゴリズムに責任が取れるのか」という疑問だ。しかし、そもそも人間の政治家は責任を取れているのだろうか?

成田悠輔『22世紀の民主主義』(SB新書)

今の自民党の執行部には80代の後期高齢者がゴロゴロいる。彼らが社会保障や医療や年金や教育といった制度や政策を作っている。数十年先の社会にこそ影響を与える政策に、80代の政治家は一体どんな責任を取れるのだろうか? 結果が出る頃には確実に亡くなっているというのに。

ということは、人間政治家が責任を負えていると盲信することは、死者に責任追及できると言っているのに限りなく近くなる。

言葉が通じず言葉も発さない死者は、一体どんな反省の弁を聞かせてくれるだろうか? 墓場に眠る人間が生きたネコや不眠不休のアルゴリズムより責任感に満ちていると信じる理由はどこにあるのだろうか? もはや哲学的である。

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