「人間」は生まれ育った環境に影響されやすい

このことをうまく説明しているのは、フランスの社会学者ブルデューによるハビトゥスという概念だろう。

彼は、この言葉を傾向性という意味で使っている。簡単にいうと、人が生まれ育った環境によって形成される性質のようなものである。誰もが自分のハビトゥスを有しているので、知らず知らずのうちに、そのハビトゥスの価値を高めるような言動をとってしまうのである、と。

たとえば、私は関西で生まれ育ち、社会人になってからはずっと非関西圏で生活している。するとやはり、無意識のうちについ関西を讃えるような言動をとってしまっているのだ。

ブルデューにいわせると、それは象徴闘争という行為であって、ある種やむを得ないものである。いま風の言葉でいうなら、マウントを取ろうとしてしまうのが、生き物である人間の性なのだろう。

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「自分が正しい」と思っている他者を理解するには

問題は、自分が正しいと思い込んでいる他者と、どう付き合っていけばいいかである。これには二つの態度が考えられるだろう。

一つはペシミズム(悲観主義、厭世観)的な態度である。つまり、あきらめるということである。ドイツの哲学者ショーペンハウアーがペシミズムの典型なのだが、彼は人間関係についても、細心と寛容を使い分けよ、と説いている。いわば、よく観察して、相手のどうしようもない部分については受け入れるしかないということである。

それが、簡単にできれば苦労しないのだが、ショーペンハウアーはトレーニングすることは可能だという。

石を相手に話しかけろというのだ。

何を話しても変わらない相手は「石」と同じ

たしかに石にいくら話しかけても、説得しても、態度が変わることはない。石とはそういう存在だ。ある意味で、他者とは石と同じように、変えることのできない存在だからといいたいのだろう。

たしかに、このトレーニングは役に立ちそうである。

私たちは相手も同じ人間だから、きっとわかるはずと思い込んでいる。しかし、人間は変わりうるという前提が、そもそも間違っているのである。相手は石だと思えば、見方も違ってくるはずだ。

自分で勝手にすり合わせるのもひとつの手

もう一つの態度は、他者とすり合わせを行うというものである。いや、正確にいうと、他者は変わらないのだから、自分が勝手にすり合わせを行うということだ。

これには、ドイツの哲学者ディルタイの生の哲学が参考になる。彼は人生における体験を重視した哲学者である。

私たちは体験を通して、自分の価値観をテストすることになる。人と意見がぶつかる、というのもその一環だ。自分のモノサシを、他者のそれと突き合わせることで初めて、違いが明らかになる。そうやって他者を理解していくわけである。