プーチンが秩序を取り戻せた「運」と「敵」

少し前までFSB(ロシア連邦保安庁/KGBの後身)長官だったプーチンは、エリツィンの汚職を追及する検事総長や政治的なライバルをスキャンダルで蹴落けおとし、信頼を得ていた。同年末には、エリツィンの汚職等をいっさい罪に問わないという条件で大統領代行に就任。翌2000年の大統領選挙で勝利した。

政権中枢に昇りつめたプーチンはロシアに「秩序」を取り戻すことに成功する。これには、大きく2つの要因も絡んでいた。

一つは「運」だ。大統領就任後から、ロシアの重要な輸出産品である原油の価格が上昇し、ロシア経済に大きな外貨収入をもたらしたのである。FSBなどの治安機関の力を使ってオリガルヒを押さえ込みつつ一定の甘い汁を吸わせながら、国庫を潤した。

社会の格差は残り、時には拡大したが、2000年代前半の実質経済成長率は5%に達し、経済全体は好転していった。モスクワの街中にはショッピングモールが建設され、ソ連崩壊後、初めて国民生活は比較的安定し、多くの人々は西側世界に近い豊かさを手に入れた。

敵を作り、潰すことで「強いリーダー」を植え付けた

もう一つは「敵」の存在だ。1999年、モスクワなどでアパートが爆破される事件が連続した。プーチンはこれを、すでに反乱を起こしていたチェチェン共和国のテロリストの仕業と断定。テロリストはロシアの「敵」であり、たたつぶさなければならないとの名目で、ただちにチェチェンに軍隊を送り、首都グロズヌイを容赦なく攻撃して灰燼はいじんに帰して制圧した。

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これにより、プーチンは国民からテロと戦う「強いリーダー」として評価され、高い支持を集めるようになったのである。

ただしよく知られるように、一連のテロは情報機関による仕業だった可能性も指摘されている。チェチェンを叩いて「強いリーダー」をアピールしたかったプーチンのために、情報機関のFSBが爆破したというわけだ。元FSB要員で、2006年に亡命先のイギリスで毒殺されたアレクサンドル・リトヴィネンコは、生前に同様の告発を行っていた。

なお、アメリカが同時多発テロを受け、対テロ戦争に突入するのは2001年後半から。プーチンはそのときアメリカを積極的に支援する姿勢を示したが、これはチェチェンに対する軍事力の行使を正当化する打算もあったと見られる。