唯一、長男の重盛だけが諫言できる立場にあったが、早世によって清盛は歯止めが掛からなくなる。これなどは秀長の死により、自らの野望に飲み込まれてしまった秀吉を思わせる。
かくして清盛の死後、そのカリスマを引き継げなかった宗盛らにより、平家は壇ノ浦の藻屑と消えるわけだが、朝廷という器の中にいる限り、栄華盛衰は必然のことのように思える。
京都ではなく鎌倉に拠点を置いた頼朝の狙い
頼朝は武士の府の中心を鎌倉に定めた。これは意図的なものだったと後にされるが、実際は東国に割拠する政権、例えば平将門が目指したものを模倣したのだろう。将門と違うのは朝廷に逆らわず、軍事権門として、その中に組み込まれることも辞さなかった点にある。
だが頼朝は武家政権を樹立する際、朝廷の影響力が及び難い東国を選び、そこから動かなかったのは正解だった。平家のように京都に本拠を置く限り、やがて公家化していき、朝廷の身分秩序の中に組み込まれてしまう可能性があった。そうなれば各地の武士たちの支持を失うのは目に見えている。
また平清盛がそうだったように、洛中という狭い空間で朝廷と同居する限り、感情的対立がヒートアップし、武力の行使に至ってしまう可能性もあった。
それゆえ頼朝が地理的にも政治的にも朝廷と距離を置き、一定の独立性を保持する方針を貫いたことが、鎌倉幕府の存続につながったと言えるだろう。
たとえ武家政権でも軍人が政治をやってはいけない
また武辺者をいち早く政権の中枢から弾き出し、京下りの吏僚を重用したことも、鎌倉幕府の成功要因だろう。
政権というものは、軍事力だけでは成り立たない。軍事力は国家と政権を支えるものにすぎず、軍人が政権の主体となると、うまくいかないケースが多い。
現代でも軍事クーデターに成功したアフリカなどの国では、軍人が政治の中枢に居座ったままだと、必ずうまくいかなくなる。しょせん餅は餅屋なのだ。
それゆえ初期段階では、軍事組織が政権の中枢を担うことがあっても、平時に移行するにつれ、徐々に政治のプロたちに権力の座を譲っていかねばならない。その先鞭をつけたのが鎌倉幕府だった。そこに頼朝の賢明さを見る思いがする。
続いて、頼朝がどのような者たちをスカウトしたか見ていこう。