劇団はさらに、1921(大正10)年には専属オーケストラを設置、1924(大正13)年には4000人収容の大劇場を完成させた。NHK交響楽団のようなプロのオーケストラが日本で成立するのは1920年代半ばのことであるから、宝塚がいかに先駆けていたかがわかるだろう。1910〜1920年代の日本社会において、西洋音楽の創作・発表の場はごくわずかしかなかったので、定期的な公演機会のある宝塚少女歌劇は、若き俊英にとってもきわめて魅力的な職場だった。

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思いつきの余興団体が“国民的スター集団”に

以上のような「宝塚情緒」とスタッフ・施設を可能にしたのは、郊外のニュータウン開発事業という物理的・技術的基盤である。

当時の観衆のひとりが、「僕は歌劇は宝塚みたいな田舎に芽生したればこそ今日の発達をなし得たのだと思ひます 宝塚にあつたればこそ!」との所感を記したように、宝塚少女歌劇は、大阪のような大都市ではなく、新たに「田舎に芽生した」ものだった(金子生「高声低声」『歌劇』1918年11月)。

小林一三は、郊外という適地を得ることで近世以来の興行慣行や温泉街の花柳界の慣習などに束縛されず、更地のうえにゼロから巨大な娯楽空間を築き上げることができたのである。

小林一三の少女歌劇は、当初、「イーヂーゴーイングから出発した」気楽な思い付きに過ぎなかった。だが、この計画は、お伽歌劇という独自の形態を生み出すことで、予想を超えた商業的な成功を収め、各地へと拡散することになった。すなわち、日本社会は、オペラという外来音楽を〈子どものパフォーマンス〉として消化していったのであり、そうした変容に具体的な輪郭を与えたのが、都市空間を再編する鉄道というコミュニケーション(交通)のテクノロジーと資本だったのである。

「未成品」であることを何より重視した理由

小林一三は、正統なオペラの代替品として、不本意ながらお伽歌劇を上演していたというわけではなかった。むしろ彼は、家庭向けの事業計画を徹底するために、お伽歌劇を積極的に上演すべきだと考えていた。

作曲家の安藤弘などは、お伽歌劇のごとき「女子供のアマチュアの遊戯」ではなく、芸術的にもっと高度な「男女本格歌劇」の制作を要望していたが、小林は「芸術家として燃ゆるがごとき信念も、(中略)結局空論に終らざるを得なかった」と、芸術家としての理想よりも、営利企業の経営者としての判断を優先した(小林一三『逸翁自叙伝』講談社学術文庫、200頁〜201頁)。

小林一三は、自らの宝塚少女歌劇を「未成品」としばしば表現し、その存在意義を主張した。たとえば、東京の帝国劇場での出張公演に際して、彼は次のような自説を開陳している。