水戸藩9代藩主・徳川斉昭が愛した牛肉の味噌漬け
水戸藩9代藩主の徳川斉昭は希代の肉好きで、彦根藩特産品の牛肉の味噌漬けが大好物。毎年楽しみにしていたというのだが、1850(嘉永3)年に井伊直弼が彦根藩の家督を相続してからこの牛肉ギフト習慣がぴたりと止まる。仏教に傾倒した井伊直弼は、それまでのしきたりを反故にし、牛肉を贈らなくなったのだ。
斉昭は九女の八代姫の輿入れに、乳牛を伴わせたと言われるほど、筋金入りの肉好きだ。彦根藩から牛肉が贈られてこなくなった後も、斉昭は彦根藩へ牛肉を贈るよう、たびたび書状を送ったという。
以下、1893(明治26)年に匿名の元水戸藩士が書いた幕末時の水戸藩の党争における顛末記「水戸藩党争始末」から抜粋・意訳する。
「牛肉が贈られてこない。毎年楽しみにしているのだから送ってくれ。『牛の殺生を禁じた』と言うけれど、これまでも送ってもらったし、彦根の牛肉は格別。せめて我らだけは特別扱いしてほしい」
こうして頼み込む徳川斉昭を「国禁ゆえ」とソデにし続ける井伊直弼。彦根藩は老中から「牛のと殺数が多すぎる! 吟味せよ!」と目をつけられたことで及び腰になっていたのかもしれないが、ここで斉昭の恨みを買ったことが、直弼が殺害される桜田門外の変につながったという異聞もある。
“烈公”斉昭の尋常でないバイタリティー
徳川斉昭の逸話はまだある。斉昭は計37人の子を産ませた“豪の者”で、大奥にいた京都の公家出身の唐橋という美女にも手をつけた。
この唐橋、実は第11代将軍、家斉の娘・峰姫づきで、家斉自身も側室に迎えようとしたが、唐橋の固辞に遭い、断念したといういきさつがあった(本来は生涯異性関係を持たない職ということになっていた)。
斉昭はそんな唐橋と密通し、懐妊までさせた。その倫理観はさておき、肉由来であろうバイタリティーが尋常でなかったことは確かだ。
子宝にも恵まれ、世継ぎの心配もないのに毎年のように子をつくり、末っ子が生まれたのは斉昭が58歳のとき。絶倫を地で行く“烈公”だった。あれこれヤリすぎたせいか、その後、斉昭は蟄居を命ぜられ、そのまま亡くなった。過ぎたるは及ばざるがごとし、である。