40年前に生まれた構想がようやく動き出した
蒲蒲線の構想が浮上したのは今から40年前、1982年の大田区基本構想でのことである。大田区によれば、東急目蒲線(当時)を地下化し、空港線に直通して羽田空港乗り入れを目指すという雛型は、この当時から固まっていたという。
当時、空港線はまだ羽田空港に乗り入れておらず、旧羽田空港駅は空港島の手前、現在の穴守稲荷―天空橋間に存在した。羽田空港は1970年代以降、航空機利用の急増により滑走路とターミナルが過密化し、また発着の増加とともに騒音問題が生じていたため、沖合を埋め立てて空港を拡張する計画が検討されていた。
こうした事情を背景に大田区の東西アクセスと羽田アクセスを両建てにした蒲蒲線構想が固まっていったようだ。大田区は1987年に蒲蒲線実現に向けた調査に着手し、1989年に「大田区東西鉄道網整備調査報告書」を取りまとめた。
これに並行して1983年に羽田空港の沖合展開が決定し、1989年に京急が羽田空港直下乗り入れの免許申請を行った。1993年に第1期線として穴守稲荷―羽田(現在の天空橋)駅間を開業。そして1998年には第2期線の羽田―羽田空港国内線ターミナル(当時)駅間が開業して空港乗り入れ事業が完了した。
蒲蒲線構想を後押ししたのは羽田空港だったといっても過言ではない。首都圏の鉄道計画はおおむね15年おきにとりまとめられる答申に従って進んでいく。最新の答申は2016年に交通政策審議会答申第198号「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」だが、その前は2000年、さらに前は1985年だった。
「区内の東西移動」だけなら実現は厳しかったが…
1982年に浮上したばかりで具体的な検討を経ていない蒲蒲線が1985年の答申に取り上げられるのは不可能だ。蒲蒲線が実現に向けたレールに乗るためには、次の2000年の答申にプロジェクトのひとつとして認められる必要があった。
蒲蒲線がもし大田区内の東西移動だけを目的としていたらインパクトに欠け、実現は厳しかっただろう。そこで大義として持ち出されたのが羽田空港アクセスの改善だった。この戦略が当たり、蒲蒲線は2000年の答申第18号で「空港、新幹線等へのアクセス機能の改善」が期待できるA2路線(2015年までに整備着手することが適当な路線)として位置づけられる。
結局、2015年までの整備着手は実現しなかったものの、2016年の答申第198号においても「東急東横線、東京メトロ副都心線、東武東上線、西武池袋線との相互直通運転を通じて、国際競争力強化の拠点である新宿、渋谷、池袋等や東京都北西部・埼玉県南西部と羽田空港とのアクセス利便性」を向上させるプロジェクトに位置付けられた。