12年1月2日。柏原は4年目にしてはじめて、4区のランナーからトップでタスキを手渡された。レース前、チームメートは柏原にトップでタスキを渡すと明言していた。それが実現した。前を走る者がいない駅伝。鳥肌がたつような感触を覚えつつ、じっと気持ちを押し殺して走っていた。1時間16分台の区間新を記録しつつゴールインした。
翌日の往路。6区のランナーは5分余の時間差をもらってスタートする。各ランナーたちは貯金を増やしつつ走り切る。1年前の雪辱をとげる完勝の箱根駅伝だった。
本命の駒澤大は2位。チームの勝因に、柏原は酒井俊幸監督の選手起用をあげる。3区(戸塚~平塚)は山本憲ニ、7区(小田原~平塚)は設楽悠太が起用されたが、事前予想からいえば逆だった。区の特性と選手の持ち味を生かす発想だった。
大学の4年間。振り返っていえば、山あり谷ありの年月であったが、こと箱根駅伝ではパーフェクトに近い結果を残した。あらためて、ここ一番の強さ、加えて運を持ったランナーであることを思う。
卒業後、柏原は富士通へ入社する。近年のオリンピック、富士通の陸上競技部からは多くの選手が日本代表に選ばれている。逸材はよき環境のもとで育つものだ。今後、どれほどのランナーに成長していくのか、楽しみである。
オリンピックの長距離といえばマラソンを浮かべるが、柏原は「未知の世にどんどん挑戦していきたい。1万、5000、マラソンという種目にとらわれずにやっていきたいですね。自力をつければどこでもやっていけると思いますから」と口にする。