「殺していい」は成り立たない

ここで私が独断で考えたエピソードを紹介します。

大乗仏教では、「発心ほっしん、菩薩の心」という考えがあります。「菩薩」を「悟りを求める者。自らを救うより、他人を救うことに努める者」としています。ということは、現代風にいえば「正義の味方」ですね。そこで、菩薩が真剣真面目に自分の誓願を実行しようとしたと想像してみましょう。

アルボムッレ・スマナサーラ『怒らないこと』(大和書房)

菩薩はまず、「では、私がこの悪い連中を倒してしまったらどうか。世の中に悪いことばかり起こす連中はいたって迷惑だから、みんなのために殺してしまったらどうか」と考えます。

でもすぐにこう考え直します。

「私はどれぐらい人を殺せばいいのだろうか。どれぐらい殺せば、この世から悪い連中はいなくなるのだろうか。もしかしたらすべての生命を殺さなくてはいけないのではなかろうか。もしそういうことであれば、そんなことをするよりも、その『悪い連中を倒したい、殺したい』という私の心のほうを直したほうが早い「殺してもいい」は成り立たないのではないだろうか」

ここで言っていることを考えてみましょう。

人間は誰しも、心のどこかに「あの人は悪人だから、死んで当然だ」という考えを持っているものです。

でも、「悪人はみんな、死んで当然だ」という理屈にしたがうなら、どれぐらいの人が死ねばいいと思いますか?

結局、それは人類全体を破壊するということになってしまうのではないでしょうか。

では逆に完璧な善人はどうかというと、これもいませんね。ですからちょっと考えれば、「完璧な善人だったら、いてもいい。あなたは悪いことをするんだから、死んでもいい」というのが、とんでもない暴論だとわかるでしょう。

不正な行動をした政治家を「政治家にふさわしくない」と決めつけて、国から追い出してみてください。そうすればきっと、政治家は一人もいなくなってしまうでしょう。現実の世の中は、そんなものです。

大切なのはどこまでも赦すこと

キリスト教のイエスさまにも似たような有名なエピソードがあります。

「不倫をした女は石で殴って殺す」というユダヤ教の戒律にしたがって、人々が不倫した女の人を捕まえたときのことです。人々はその人を柱に縛って、石をぶつけて殺そうとしていました。不倫した女は処刑に決まっているというわけです。

そこにイエスが現れて「あなたがたは何をしようとしているんですか」と聞きます。「この女は不倫をして旦那を裏切った。だから、我々が神さまの教えにしたがって、石で殴って殺すのだ」と人々は答えます。

するとイエスは、「よくわかりました。では、最初に何も罪を犯してない人から石を投げてください」と、言って去ったのです。

その言葉を聞いたとたん、誰も石を取ることができなくなってしまいました。それでこの女性の命は救われたのです。

このイエスの言葉は真理です。「悪いことをしたのだから、その人には罰を与えても当然だ」という思考は、本当におかしいのです。「殺してもいい」などという物差しは、どこにも存在しないのですから。

ここでイエスが言っていることは、つまり「赦してあげてください」ということです。どこまで赦すのかというと、「どこまでも」です。赦しにはリミットがないのです。「その教えは、間違いなく正しくて、それで幸福が得られる。神の世界が自分に現れる」と言っています。「神の世界」は「幸福という状態」のことですね。

たしかに、「人が何をしようとも、どうなろうとも、私はその人を赦します。その人を拒絶せず、愛情を持ちます」とすべてを赦す気持ちになれたら、その人の心は愛情と幸福だけでいっぱいになってしまうのです。

写真=iStock.com/PeopleImages
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その状態を、キリスト教では「神」と呼び、他の宗教では別の言葉で表しています。その単語自体はあまり意味を持ちません。大切なのは「赦す」という行為なのです。また、人の感情を神格化しない仏教は、単純に「慈しみ、赦す」という言葉を使います。

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