「自国民」殺害事件への報復として日本軍が台湾へ

琉球人の台湾遭難事件に関して、副島種臣外務卿は台湾出兵計画を胸にして、1873年6月、清国の総理衙門諸大臣と北京で会談した。

成果があった。役人らを殺害した台湾の「生蕃」の居住地は清国の管轄外だとの言質を得たのである。当時の駐日アメリカ公使・デ・ロングらの「無主地先占論」のアドバイスを受け、出兵計画が具体化された。「自国民」を殺害されたことへの報復を行ったと主張し、琉球が日本の領土であると認めさせようとしたのである。

この計画は、副島が下野したため大久保に引き継がれた。琉球藩がこれに反対し、中止を要請したが、1874年5月、西郷従道率いる3600人余りの日本軍(鹿児島県の士族が圧倒的に多かった)が台湾先住民の居住地を武力制圧した。

清国の抗議に対して、大久保内務卿は自ら全権弁理大臣として北京に乗り込み、不退転の覚悟で直談判した。

清からの見舞金を取りつけた北京議定書の積み残し

2カ月間の談判は難航したが、駐清英国公使の調停で、日清互換条款(北京議定書)にこぎつけた。大久保の粘り勝ちであった。撫恤金を取りつけたことで大久保は意を強くした。岩倉遣外使節団による条約改正交渉の大失敗が帳消しとなったばかりでなく、盤石の政権基盤を確立することができたのである。

しかし議定書では琉球の日本所属がまだ明確にされていないと判断した大久保は、琉球処分という最後の手段に出ようとした矢先に暗殺された(1878年5月)。

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清の李鴻章は中国を訪れていたアメリカ前大統領グラントに琉球問題の調停を依頼した。

1879年7月、グラントが来日して大久保の後を継いだ伊藤博文らと協議した結果、日清交渉が再開されることになった。翌年、日本はグラントの助言を採用し、清に対して「分島・改約案」を提案する。すなわち、宮古・八重山を清国に割譲するかわりに、日清修好条規(1871年締結)に中国国内での欧米なみの通商権を認める条文を加える、というものであった。しかし清国は受け入れず、交渉は一時棚上げとなった。

最終的には、日清戦争(1894~95)による日本の勝利で琉球の帰属は日本に確定した。