年頃の娘たちは「人身御供」にさせられた
1956年3月10日の『内外タイムス』には、連載していた戦後売春史のRAAの項を終えるにあたり、RAAの関係者の座談会の記事が載っている。
一人は「開店する前日、幸楽に三十人ばかりの女を集めた。というのは、ダンサー、女給、芸者という名目で募集した連中だから、明晩から開業する慰安所での仕事は、実は“肉体サービス”であることを納得させなければならなかったのだ。
二階に三つテーブルを置いて、一人一人呼んで、説明をはじめた。驚いたねえ。『いやだわ』と反対する女はほとんどなかった。その夜のうちに女たちはトラックにのせられて出発していった。ボクはその出発を見送ったが、ひとりでに涙が出ましたよ。可愛い年頃の娘たちが『人身御供』にあがるのかと思って……」。
別の一人は「年齢的には一八、九歳から二五、六歳までの乙女たちだった。出発の時はたしか万歳を叫んだっけ」
ジープが着くと同時に米兵たちは突撃してきた
開業時の様子について一人は、「ジープでどっとやってきた。沖縄から横浜にやってきた第八軍じゃなかったかな。みんな相当“たまっていた”とみえて、ジープが着くと同時にトキの声をあげて“突撃”してきた」
さらに別の一人は「人に見られようといっこうおかまいなしだったね。可哀想なのは女でしたよ。それこそアラシに見舞われた小舟のようにみんなクタクタだった」
RAAに与えられていた大きな権限
RAAの力について一人は「政府と同じくらいの権限があった。その権限でつぎつぎと家を買い取ったりして開店していった。軍が隠匿したガソリンなんかもたくさん入手した。月島に倉庫を借りてドラム缶が山のように積まれたくらいだった」
別の一人も「RAAの証明があれば何でも買えた。食糧でも衣類でもね。女に着せる着物、銘仙だったが三越と白木屋から買っていた」と語っている。
彼女たちにはメリンスの長じゅばん一枚、肌着と腰巻二枚が支給された。他にセルロイドの洗面器、石鹼、歯ブラシ、歯磨き粉、タオルに手ぬぐいが東京都から特別に配給されたという。