怒涛の養子攻勢で、血が途絶えてしまった家も…
そのため、家斉の養子押し付けを巡って、さまざまなトラブルが発生する。
たとえば、福井藩である。藩主・松平斉承は、家斉の二十一子・浅姫を嫁にもらい、2人の間には男の子が生まれるが、すぐに早世してしまう。浅姫には、まだ次子が生まれる可能性があったにもかかわらず、家斉は無理やり五十子・民之助を押し込んだのである。
御三家筆頭の尾張家の場合は、さらにすごい。4人も家斉の子が養子に入っているのだ。家斉は、尾張の徳川宗睦の嫡子・五郎太に長女の淑姫を輿入れさせようとした。
結婚の取り決めは姫が2歳のとき、婚約は5歳だった。けれども五郎太が幼死してしまい、婚約は解消される。が、家斉は五郎太に代わって、我が子の敬之助(六子)を宗睦の養子にしたのである。
そして敬之助が3歳で死ぬと、すでに一橋斉朝に嫁いでいた淑姫を、夫婦そろって宗睦の養子としたのである。さらに、淑姫夫妻に子がなかったことから、四十五子・直七郎を養子に入れ、その子が死ぬと今度は三十八子の斉荘を送り、尾張藩主とした。
考えられないような養子攻勢により、藩祖義直以来の尾張家の血脈は完全に絶えてしまった。
東京大学の赤門の意外な由来
もちろん、家斉の子をもらいたいと願い出る藩もあった。将軍の養子先は、格式の高い藩と相場が決まっていた。それゆえ、小藩の場合、家斉の子を養子にすると、自動的に家格が上がり、松平姓と三ツ葉葵の紋の使用が許された。
また、徳川家から拝借金をもらうことができた。これは弱小藩にとって、最大の魅力だった。だが、大藩に関しては、かなり閉口していた様子が窺える。
将軍の子を迎えるには、用意を整えるだけで莫大な費用がかかる。たとえば姫路藩などは、家斉の四十五子を嫁に迎えることで、財政が悪化したという。そういう意味では、大大名の力をそぐ効果もあったわけだ。
ちなみに、現在東京大学にそびえ立っている赤門は、元加賀藩の屋敷門で、前田家が家斉の二十一子をもらうにあたって、新築させたものである。
いずれにしても、家斉の子供の数とその強引な養子戦略は驚くほかはない。