襲撃事件から二日後、頼朝は太多和義久の邸を訪問。しかも、牧宗親を連れての訪問でした。そして、頼朝は皆がいる前で、亀の前に侮辱を与えた牧宗親を罵り、髻を切ってしまうのです。宗親は、泣きながら、邸を飛び出していったといいます。

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(舅・北条時政の義父の髻を切るなどの侮辱を、頼朝が与えることはないだろうという考えから、牧の方の兄・時親が、亀の前を襲撃したという説もあります)

頼朝はその夜も、亀の前のところに泊まっています。果たして、どこまで「反省」していたかは疑問です。ともかく、この一件で「妻の親族に侮辱を与えたな」と北条時政は怒り、伊豆に無断で帰ってしまうことになります。

懲りずに亀の前との逢瀬を続ける頼朝

12月10日、亀の前は再び、逗子の中原光家の邸に移されています。

亀の前は、政子の怒りが怖いとしきりに言っていたようです(『吾妻鏡』)。ですが、頼朝は構わず、亀の前と会っていたようです。

そして、それから1週間もたたない12月16日、亀の前をかつて住まわせていた伏見広綱が遠江国浜松へ流罪となります。

この背後には、亀の前を住まわせていたことへの政子の怒りがあったようです。そう思うと、伏見広綱もとんだとばっちりにあったと言えます。可哀想と言うしかありません。

これ以降、亀の前の消息はつかめません。頼朝との関係はずっと続いていたのかも知れません。

そうなると、逗子の中原光家も、政子の怒りに触れ、何らかの罰にあった可能性があります。しかし『吾妻鏡』にはそうした記述はありません。伏見広綱が流罪になったことで、政子の怒りが収まったと考えられます。

頼朝と政子、そして亀の前の三角関係を見て思うのは、政子の怒りのすさまじさです。さらに、それを全く気にしていないかのような飄々とした頼朝も印象的です。「面白夫婦」の一面を垣間見たように思います。