なぜ日本で手術支援ロボット「ダビンチ」は生まれなかったのか

藤井が佐賀大学医学部を卒業した年、2012年の12月に安倍晋三を総理大臣とした第2次安倍内閣が発足。安倍内閣は〈大胆な金融政策〉〈機動的な財政出動〉〈民間投資を喚起する成長戦略〉という“三本の矢”を掲げた。

翌13年6月に発表された安倍内閣の方針となる「日本再興戦略」には医療品、医療機器、再生医療の医療関連産業の市場規模拡大が含まれていた。

医療に限らず製造業で日本の地位が地盤沈下していた。技術が衰えた、のではない。その技術を使った製品開発が鈍っていたのだ。

その顕著な例が、手術支援ロボットダビンチである。

ダビンチ内部の部品は日本製が少なくない。個別の技術という観点では、日本で開発可能だった。しかし、総体としてダビンチのような製品が生まれなかったのは、イノベーション、つまり技術革新が起きなかったからだ。

この原因は深く、様々な角度で分析可能だろう。その中の一つは管轄官庁が曖昧なことだ。

高度成長期の日本、あるいは近年の中国を例にとるまでもなく、私企業の発展は管轄官庁のバックアップと切り離せない。医療関連産業では、医学と工学分野が交差している。文部科学省、厚生労働省、経済産業省のそれぞれが独自の分析と施策をとっていたのだ。

そこで基礎研究から実用までの医療分野を縦断的に推進する国立研究開発法人日本医療研究開発機構――通称「AMED」設立に向けて動き出した。日本版「NIH(アメリカ国立衛生研究所)」である。

同時期、文部科学省は「未来医療研究人材養成拠点形成事業」を公募している。鳥取大学では、植木が担当していた講座「発明楽」を大学院で発展させることを提案、8月に全国10大学の一つに選ばれた。

「これからは医療機器やで」

とりだい病院でも“医工連携”、イノベーションに向けて動き出していた。

2013年12月、古賀敦朗が鳥取大学に入職した。古賀は千葉大学理学部生物学科を卒業後、製薬会社を経て、バイオベンチャー企業で創薬、健康食品の臨床研究に携わっていた。

付き合いのあった鳥取大学医学部の医師から、医療関係の“事業化”の面倒を見る人材を探していると誘われたのだ。

「ぼくは創薬や健康食品の臨床研究の仕事をするものだと思っていました。ところが、当時の病院長の北野(博也)先生から、“(研究開発費として莫大な先行投資が必要な)創薬なんて鳥取大学で出来るわけがないだろう、これからは医療機器やで”って言われたんです。

ぼくはポカンとしたんですけれど、とにかくやってみなさいって、植木先生を紹介されました」

大学で人材を涵養する植木と、事業化の古賀の両輪である。

商品開発、発売には民間企業との協業が不可欠である。古賀は鳥取県内の企業に声を掛け、病院内ツアーに参加してもらうことにした。技術者が医療の現場を見ることで気づきがあるはずだと踏んでいたのだ。

2014年、とりだい病院発の産学協同製品第一号として、排水溝がついた漏れにくい大人用、紙おむつ「アテント」が大王製紙から発売された。これは形成外科の中山敏の案に基づいた製品である。

そして翌2015年4月、大学院医学系研究科で植木が中心となった「革新的未来医療創造コース」の第一期が開講した。その中には藤井の顔があった。

植木はこう振り返る。

「藤井政至君を思い浮かべて、彼を育てるためにこんな風に授業をやっていこうと考えたんです」

医学部系大学院では、担当教授と話し合いながら自らの研究に専念する。しかし、革新的未来医療創造コースは少々趣が異なる。4年間かけて“発明楽”のほか、特許作成、知財戦略などの実務を学ぶ。

藤井の場合は、前述のように、とりだい病院の救命救急センター、消化器内科などで勤務しながら、である。