「親ガチャ失敗」とため息をつくぐらいが良い

最近、孫たち(高校生と大学生)から「親ガチャ」という言葉があると聞きました。

ガチャというのは、カプセルトイというカプセルに入ったオモチャなどを自動販売機のハンドルをガチャと回すことで入手するもので、その中身はカプセルを開けるまでわからないそうです。ほしいものは何回ガチャガチャ回しても出てこない。それでため息が出るような景品を引いちゃったな、というのが「親ガチャ」の語源だそうです。

これは面白い。親に期待する自己への批判も含まれたユーモアがよいそうです。あなたも「親ガチャ」回して出てきた子だから、ダメ親にため息ついていればいいのです。

元気づけで言うわけじゃないが、名だたる美女・英雄の子というのも大変ですよ。ため息が出る程度の親がちょうどいい。

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「毒親共依存」を自覚することからはじまる

私がアダルト・チルドレン(AC)というアメリカ人たちの概念を導入したのは、自分の感情や行動パターンを自覚するため(変化は自覚することからはじまります)のひとつの手立てになると思ったからです。

そうした認識のもとにクリニックや自助グループなどの“安全な場所”を見つけ、治療者や仲間などにトラウマ体験を話して受け入れられることで、“自らの力の自覚を獲得”し、さらには“新たな人間関係を作り出す”ことで回復していこうという企たくらみ――つまり、自分自身に目を向けるために提案したのです。

ところが、「毒親」や「アダルト・チルドレン・オブ・毒親」では、自分ではなく親のほうに注意のエネルギーを向けてしまいます。自分を変えることではなく、親を変えることに一生懸命。まさに、アル中の夫に飲酒をやめさせようと躍起やっきになっている妻と同じで「毒親共依存」です。その自分の姿に気づくこと、自覚することからすべてははじまるのではないでしょうか。

問題は、「毒親」や「AC」という言葉にあるわけではなく、それを自分に当てはめた人々の意図にゆがみがあることでしょう。直線的な原因結果論を信じ、「親が自分に充分な愛情なり金銭を配給しなかったために、今の私になってしまった」「これもすべて親のせいだからしかたがない」という主張に、私は納得がいかないのです。