生涯の師との出会い
もう一人の“恩人”は、職業訓練大学校時代の恩師である工学博士の見城尚志先生である。見城先生は音響機器メーカーで精密小型モータの研究をしており、大学には講師として着任していたのだ。
私より四つ年上の見城先生は、とにかく頭の回転が抜群に速く、自信にあふれていた。モータに関する膨大な知識をもち、意欲的に研究に取り組む姿勢には、頭が下がった。
そういう見城先生も、私のことを「バイタリティに富み、何でも一番でなければ気がすまない猛勉強家」と評価してくれていたようだ。年齢もあまり変わらないうえ、お互いが自信家とあれば、プライドをかけた真剣勝負がくり広げられたのも、当然といえば当然だ。
ある日、研究室に呼ばれて課題を渡された。
「君はいつも偉そうな口を叩いているようだが、このドイツ語の本を明日の朝までに訳してきなさい」
無茶な話だったが、私の闘争心も半端ではない。死に物狂いで訳して、翌朝には持っていく。「ほう」と先生は感心するが、私に対する難題はどんどんエスカレートしていく。それでも私は必死になって食い下がった。
卒業論文の執筆のときは、「物事に、これでいいという妥協があってはならない。たとえ学生でも、学会で発表できるような論文を書け!」と発破をかけられた。
精密小型モータの魅力に取り憑かれた理由
私は何日も徹夜して必死になって論文を書き上げた。
ところが見城先生は、学友の目の前で「なんだ、この内容は!」といって、破り捨てる。「なにくそ!」と、私も歯を食いしばって食らいついていった。何度も書き直して論文を仕上げたのだった。
そんなことのくり返しだったが、そのたびに私はますます精密小型モータの魅力に取り憑かれていった。いつしか見城先生は、私にとってかけがえのない存在になっていったのだ。
大学卒業後、私は見城先生の推薦によって、先生が勤めていた音響機器メーカーに就職することになるのだが、その後も、このような緊張感をともなった師弟関係は続いた。
双方、自信家でお互いに譲ることがないので、会えば必ず論争になる。しかし心のなかでは、私がここまでくることができたのは見城先生のおかげだと感謝しているのだ。
先生もおそらく同様の思いをもっているに違いない。先生には大学校を定年退職後、当社の研究所の所長、そして特別技術顧問として、大いに力を発揮していただいている。