来日のオファーから公演、宿舎、観光案内まで…

呼び屋の仕事はふたつの要素から成り立っていた。

ひとつは、海外の芸能人と交渉して来日させること。永島さんのように英語が流暢でかつ土地勘のある人であれば、直接出かけていって、まず現地でショーを見る。見た後、外国人タレントのマネージャーあるいは公演のスケジュールを握っているブッキングエージェンシーと話をして来日を招請する。英語力もなく海外に出かける金銭的余裕のない呼び屋は、手紙あるいは電報で来日公演を請う。

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神さんの場合はソ連共産党の幹部とネットワークがあり、党幹部に頼んで合唱団やバレエ団を呼んでいた。

仕事のうち、ふたつめは交渉が成立して来日したタレントの公演を行う仕事で、いわゆる興行だ。タレントと公演内容を打ち合わせ、会場を確保し、切符を売り、宣伝をする。公演の当日を迎えれば会場を管理し、無事に終了するように気を配る。むろん公演に付随するさまざまな雑務も仕事の一部となる。来日したタレントを出迎え、宿舎や練習場も確保する。日本観光のガイド役もやる、食事や土産物の世話もやらなくてはならない。

たった1500席しか入らない日本にどう呼ぶか

戦後、アメリカのジャズ、ポップスのミュージシャンが日本にやってきたのは当初は駐留基地のクラブにおける慰問公演だった。同胞の将校、下士官、兵隊へ向けて、パフォーマンスを行った後、永島のような呼び屋が大枚のギャラを払って赤坂のナイトクラブでショーを行ったのである。

その後、日本が成長していくにつれ、各国からアーティストがやってくるようになる。それでも、ポップミュージックの公演に貸してくれる会場は少なかった。クラシック音楽の場合は東京文化会館のような1000~2000席の会場があったが、ポップミュージックはもっと少ない。キョードー東京元社長の内野二朗『夢のワルツ』(講談社)によると、1960年代でポップミュージックの公演ができる最大の収容人数を持っていたのはサンケイホールで、せいぜい1500~1600席だった。

今でこそ日本武道館は武道よりも音楽のライブ会場と思われているが、ビートルズが1966年に使うまでは、柔道剣道などの武道を行う神聖な場である。永島が1万数千のキャパシティーを持つ武道館を会場に使用したことはポップミュージック、洋楽の発展に大きな影響を与えたのだった。

博打のようなビジネスだった

それでも、呼び屋と呼ばれた男たちは永島さん以外はほぼ廃業している。それは海外から新しいタレントを連れてくることはできたが、日本国内で公演を打つ仕事に慣れていないからだった。神さんは手打ち興行といって、自ら会場を手配して切符を売った。一度でも失敗すると、運転資金に窮してしまう。博打のようなビジネスだ。

一方、永島さんはリスクを分散した。手打ち興行だけでなく、来日したタレントをナイトクラブに出演させ、先に手数料を確保していたのだった。