究極の不遜も、天才がやればサービスになる
噺家のレジェンド、立川談志さんもそうでした。
談志さんなんて、会場にすら来ない。
「客席がいっぱいでございます、師匠」
と言われた途端、
「古舘、日比谷の美弥っていうバーで待っててくれ」
って高座をすっぽかして、行きつけのバーに僕を呼び出して、
「俺だってやりてえよ。やりてえけどさ、やっぱ人の意表を突かなきゃ芸人として失礼にあたるから。これ、逆サービス、裏サービス」
そんなふうに言うんですよ。でも逆に、客の入りが悪い時は自ら出ていって、
「おい、今日来たやつらにいい話するぞ、古典いくか」
なんてやっていました。究極の不遜も、天才がやることで反転してサービスになる。
さんまちゃんがみんなを待たせたこと、わがままを演じるために部屋に籠城したこと、全部含めてネタになったんです。でもいまは、コンプライアンスとハラスメントと炎上がこの世の三尊像となってしまって、つまんなくなっちゃった。
「ともかく笑えや」という人生訓
「さんまちゃん、本質を突くことを言うなあ」ともう一つ記憶に残っているのは、6年ぐらい前の新聞記事。
娘のIMALUちゃんが、お父さんのさんまちゃんと自分にまつわるエピソードについて語っている記事でした。
久々にお父さんと電話で話した。こんなこともあった、あんなこともあったと自分の苦労やグチを話したら、いつもは「何や、それは」とツッコんだり、盛り上げたりギャグにするお父さんが、全然そういう反応をしない。
ただ、「うんうん」と真面目に普通のお父さんのように聞いてくれる。
半分戸惑って、半分ちょっと嬉しくて、ずっと憂さを晴らすがごとく、グチグチ言っていたら、最後の最後、すべて言い終えて、もう話すことがなくなった時、さんまちゃんが、
「じゃあ、一つだけ言うてええか」
と言って、
「何?」
と聞いたら、
「笑え」
「ともかく笑えや」
と連呼して電話を切ったと。僕はこの話、感動しました。『報道ステーション』でニュースキャスターをしていた頃で、僕自身、ちょっとテンパッている時期だったので、余計に最後は笑うべきだと思ったんです。
よく言われることですが、棺桶に名声や地位、財産を入れることはできません。
人は、この世に来た時は孤独に生まれ、あちらの世界に行く時も孤独に去ってくわけじゃないですか。人生の本質はそこだろうと思った時に、自分で獲得した命じゃないなら、生かされているだけなら、この世を天国だと思って、つらい時も楽しい時も最後は笑えばいい。そう思ったんです。
水戸黄門の歌じゃないけど、人生楽ありゃ苦もあるさ。苦楽は一対。苦楽イコール人生だから。
そういう意味では僕は、「笑えや」って本質だと思います。「笑えや」と言うことで、どれだけの人が救われるか。「人生の本質は笑い」というのは、さんまちゃんに教わった気がします。
数年たって、さんまちゃんの番組にゲスト出演させてもらった時、この話をしたんですよ。「本当に勇気づけられました」と。
さんまちゃんはそれを聞いて、
「古舘さん、そんなん褒め殺しやん。そんないい話にせんといて」
と言って煙に巻いてましたけどね。