塾生は当時、25歳以下で、在籍期間は5年、全寮制だった。塾頭理事や副理事長を務めた上甲晃(現志ネットワーク「青年塾」代表)が解説する。
「知識のエリートの育成でなく、現場での体験を通じて知恵を心の中に修める。自修自得と呼んだ。幸之助さんは『身の回りの掃除もできんやつは、日本の掃除はできん』と言って掃除をさせた。月20万円程度、自由に使える研修資金を出す。だが、卒業後の面倒は見ない。野田さんは、地域を知るのにこれが一番と、船橋のガス器具やプロパンの会社でガス検針を1年くらい無報酬でやった」
同じ一期生の内山登(現岡山県議)はこんな思い出を話している。
「入ってすぐの頃、サラ金苦で困っている船橋の人の話を憤慨して語っていた。83年に同期の小野晋也さん(後に衆議院議員)が愛媛の県議選に出た。6カ月間、新居浜市で寝泊まりし、一軒一軒歩いて応援したのは野田さんだけ」
もう一人、一期生の平浩介(現広島県議)は野田像をこう述べる。
「ぶれない。発言は信用できる。一期生の中には『将来は首相に』と言った人もいたけど、そういう言葉は聞いたことがない。出しゃばらない。人を押しのけてというのはなかった」
(文中敬称略)
※すべて雑誌掲載当時