現世の矛盾に憤るあなたへ
「ほとんどのことは『たかが』と思う」
ほとんどのことは、実は「たかが」なんです。それこそ救急医療とか、閣僚の決定というのは大変だと思いますが、あとのものは「たかが」です。
むしろ「たかが」と思うと、落ち着いて見られる。夫婦だって他人同士だった、そう思っていれば、ぶつからずに済む。自分もいい加減だけど、あいつもいい加減だよな、と仲良くなる。そう考えると、いろんなことはそんなに難しいことじゃないんです。
「人間は、自分の大きさの升をそれぞれに持っている」
日本には升というものがあります。人間は、自分の大きさの升をそれぞれに持っている、と思うんですね。
自分の升に半分しか入ってなければ、人間、不満なんです。もっといっぱい欲しいと思ってしまいます。七、八分目、あるいは九分目に入っている時、ああよかった、沢山頂いたと思えるようになれば、その人は幸せになれます。
他人と同じ分量の升を持とうとすると、多分、人は不幸になるんです。少食の人は大食の人と同じ大きさのお茶碗は要りませんしね。
また、同じ升でも、大きさのほかに、中に入れるものに対しては自分の好み、あるいは違いがある。私にもけっこう、好みがあるんです。人間はそれを、自分の運命という升に登録しているんです。
自分は特別に人より大きなものが欲しい、二つも三つも升が欲しい、専用の升がなければ、あるいは自分の升には金だけ入れなければ不満という人は、大きな勘違いをしていると思うのです。
これでは一生満たされませんから、いつも不幸という実感に苦しめられます。
苦難が力をくれる
「矛盾こそが人間に生きる力を与える」
この世は矛盾だらけですが、その矛盾が人間に考える力を与えてくれています。
矛盾がなく、すべてのものが計算通りに行ったら、人間は始末の悪いものになったでしょう。少なくとも私は考えることをやめ、功利的になり、信仰も哲学もなくなったはず。
正義が果たされる現世など、決して、我々が考えるほどいいものではありません。逆説めくけれども、人間が人間らしく崇高であることができるのは、この世がいい加減なものだからです。
正義は行われず、弱肉強食で、誰もが容易に権力や金銭に釣られるから、私たちはそれに抵抗して人間であり続ける余地を残されているのです。
「たまたま生まれた場所で最善を尽くす」
人間は長い歴史の中で、たまたま自分が生まれ合わせた時代の、たまたまそこに居合わせた場所で、最善を尽くして生きればいいだけなのです。それ以上、小さな一人の人間に何ができるでしょうか。