新政府軍は徳川の本陣、江戸城をめざした
そもそもの話のはじまりは、鳥羽伏見の戦いである。慶応4年(1868)1月、京都南郊の鳥羽および伏見の地において、薩摩・長州藩兵を主体とする新政府軍が幕府軍に勝利した。
幕府側はもちろん勝ったほうでさえ「ほんとに?」と思ったにちがいない劇的な結末。それに乗じて、やれ行け、押せ押せとばかり進撃をたくましくする新政府軍。めざすは徳川の本陣、つまり江戸城の攻め落としである。
実際、彼らは3月6日の時点ではもう甲府に入っていて(以下日付に注意)、その日の軍議で、
──3月15日、江戸城総攻撃。
と決定している。
9日後である。将軍・徳川慶喜はすでにして寛永寺に謹慎しているから大将はいないのだけれども、しかし何しろ江戸の街には「旗本八万騎」と称される将軍直属の親衛隊が駐屯している。いやまあ実際はその駐屯というやつも天下泰平300年のうちに単なる定住と化したわけだが、それでも人数は圧倒的だ。
もらう給料(米の石高)も多いから、士気も高いと思われる。戦闘は苛烈をきわめるだろう。江戸は火の海になるだろう。だいたい城攻めというやつは、攻め手が勝つにしろ、守り手が勝つにしろ、どっちにしても街は火を放たれるものと相場がきまっているのである。しかしその最悪の事態は、結局のところ回避されることになった。
徳川家は総攻撃前日にあっさりと「開城」
新政府代表・西郷隆盛、および幕府代表・勝海舟が二度の会談をし、交渉をし、合意をしたことによる。会談日は3月13日と14日。つまり江戸城は、かろうじて前日に総攻撃をまぬかれたことになるわけだ。
その後の実務は、淡々としていた。4月に入ると新政府側の要人はつぎつぎと入城を果たしたし、5月には、徳川家を相続した6歳の徳川家達の、駿府70万石への転封が決定した(24日)。
家達および家臣団は、これにあっさりと従った。たしかに血は流れなかったのである。
これをイギリス名誉革命とおなじ知的かつ文明的な達成と見るか、それともイギリス名誉革命とおなじ流血未遂にすぎないと見るかは人それぞれだが、しかし日本の江戸開城があれと大きくちがうのは、これ以後に、大規模戦闘が続発したことだった。