戦後初めて債務不履行を起こしたヤオハンの奇策
山一証券や北海道拓殖銀行が自主廃業や経営破綻に追い込まれ、深刻な金融不安を引き起こしたのは97年11月だった。実はその2カ月ほど前に、公募社債として戦後初めて債務不履行を起こして資本市場の混乱を招いたのは、ヤオハンジャパンが発行した転換社債だった。
ヤオハンの倒産直後から管財人弁護士たちが頭を抱えたのは、転換社債の社債権者が日本中のどこに散らばり、彼ら一人ひとりがいくらの社債を保有しているのか、さっぱりつかめないことだった。現在のように社債の振替機関がなかったためである。
しかも会社法が施行されるより10年近く前のことであり、当時は社債権者を把握して社債権者集会の開催を通知し、一定の社債権者が集まらなければ法的には集会が成立したとは認められず、ヤオハンは再建の緒に就くことさえ難しくなる恐れが生じた。
この時は管財人がスポンサー企業に転換社債を買い取ってもらうという奇策をひねり出し、これが思わぬ効果を生んだことで事なきを得た。しかし奇策は奇策である。次も同じ手が通じるわけではない。
日本が「市場の出口」整備に10年を費やしたワケ
その後さらに、98年に日本国土開発、2001にマイカルの社債がデフォルトを起こした。日本国土開発のケースでは当初、借入金に占める社債の割合が大き過ぎて、「金融機関が債権放棄するだけでは経営再建には不十分で、社債の投資家にも応分の負担を求めなければならない」という議論も巻き起こった。これも高度に資本市場が発達した国ならではの問題だろう。
こうしてデフォルトのたびにそれに付随する新たな問題が浮き彫りになり、日本はこれを一つずつ洗い出して資本市場の出口を整備していった。デフォルトを糧として古びた法律を見直したり、制度を実情に適ったものに改めるのに、10年をかけ、今もそのブラッシュアップを続けている。
一方の中国の市場は若すぎて、倒産関連法がデフォルトの試練に磨かれておらず、実務の上で十分に使い物になっているのかという疑念がつきまとう。