憧れの「アート商会」への入社

東京駅に降りて、驚いた。夢にまで見ていた自動車が、まるで蟻のように走りまわっている。田舎者の父と宗一郎は、ようやく「アート商会」を探しあてた。

アート商会に入ることはできたけれど、現実は厳しかった。

自動車に触れることなどできず、仕事といえば主人の子供のお守りをすることだった。兄弟子たちには、「お前の背中には、いつも地図が描いてあるじゃないか」と、からかわれた。「地図」とは、赤ん坊の小便のことである。

けれど、失意の日々は、さして長くなかった。

毎日、こうして自動車を見たり、機械の組み立てや、構造を観察するだけでも、勉強になるではないか……。半年ほど経った時、主人が宗一郎を呼びつけた。

「今日は、滅法忙しい。お前も手伝え! 作業衣を持ってこい」

宗一郎は驚喜した。待ちに待った瞬間である。作業衣にとびつき、すばやく腕を通し、そっと鏡の前に立って自分の晴れ姿に見入った。

兄弟子たちが着古し汚れた服だったが、宗一郎にとっては、頰ずりしたいほどの晴着だった。

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初めての給与で買った意外なモノ

大正十二年九月一日。突然、地鳴りがすると地面が揺らぎ、建物がかしぎ、火の手が上がった。関東大震災である。

アート商会にも火の手が回ってきた。修理工場もあるから、預かっている自動車を焼いたら大変なことになる。

「自動車を出せ、運転のできる者は、一台ずつ、安全な場所に置いてこい」

この時、宗一郎は、「しめた」と思ったという。群衆の間を縫って、とにかく宗一郎は自動車を運転した。今、まさに自動車を運転しているのだ、という感激が、あまりに強烈だったので、震災の脅威も目に入らないほどだった。

震災を境にして、宗一郎は一人前の、修理工になった。

ある日、宗一郎は、盛岡まで、消防車の修理に行くことになった。宗一郎は喜んでいったが、客は宗一郎を、こんな若造で、大丈夫か、というような、不審な目で見ていた。

そのうえ、修理に取りかかれば、「そんなに分解しちゃうと、直らなくなっちゃうよ」と、心配される始末だった。

首尾よく消防車の修理は完了した。主人も喜んで、初めて給料らしい金をくれた。

宗一郎は、かねがね欲しかった金モール付の帽子を四円で買った。当時、米十キロ三円二十銭であったから、高価な買い物だったろう。

震災後、アート商会の主人が芝浦にある工場で、焼けたままほったらかしにされていた沢山の自動車の修理を引き受けることになった。

十五、六人いた修理工たちも、ほとんど田舎に帰ってしまったので、宗一郎と兄弟子で修理にかかった。スプリングにしても、シャーシーにしても何で作ったものか分からない有様だった。とにかく、自動車の体裁を整えることに終始した。

いざ組み立ててみると、エンジンはきちんと掛かった。宗一郎自身、不思議に思うほどだった。すると主人が、その車を高く売りつけに行ってきた。

「これだって、立派なニューカーだからな」

一番、困ったのは、スポークであった。当時の自動車は、みんな木製だった。車大工でさえ、作れなかったのだから、苦労するのも、当然だったのである。