「疎外者」を生み出す限り事件は必ず起きる

人知れず生まれる「疎外者」たち――かれらは私たちが毎日をなにげなく過ごしている「自由で平和で快適な社会」を維持するときにかならず生じる「副次的産物」にほかならない。

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「(社会的・経済的・人間関係的に)傍にいることがふさわしくない者」を排除して、そうでない平均以上の人びとの同質性や快適性を高めようとすれば、どうしても「疎外者」を生み出すことは回避できない。「疎外者」となってしまった人が必然的に社会に激しい怨念を抱くわけではない。だがごくわずかにしても、そこから例外が生じる。

「疎外者」を生み出すことを所与として実現した快適で平和な社会では、こうした凄惨な事件や事故が必ず起きてしまう。これはいうなれば、私たちが日常生活の場面において「厄介者」に煩わされないためにかれらを「疎外」することを選んだ以上、毎年支払わなければならない「必要経費」に相当するものだ。

私たちがかれらを包摂せず疎外すると決めたからこそ、この代償は――はっきりとした時と場所は不明だが――いつかは必ず支払わなければならないものになった。

「不快な他人」を遠ざけた社会の代償

社会に対して「反逆」することを選んだ「疎外者」たち――「派遣社員としての絶望(マツダ本社工場連続殺傷事件)」にせよ「インセルとしての憎悪(トロント車暴走連続殺傷事件)」にせよ、あるいは「ジハーディ・ジョン(ISILに参加したムスリム系イギリス人。首狩りの処刑人として知られた。彼はイギリスの名門大学を卒業するが、イギリス社会の人種・宗教差別によって恵まれた仕事ができず、次第に西欧文明の先進社会に憎悪を募らせていくようになった)」にせよ同じことだ。

のちに明らかにされたかれらの直截的な具体的動機は全員異なるが、かれらは自らの希望とは反し「疎外者」として生きることを余儀なくされたという背景を共有している。その対岸で、彼らのような人を疎外することによって、その他大勢の人びとは「不快な他人」とかかわらなくて済む快適な社会を享受した。