もちろん、新曲が発売されたもののまったく売れないというケースもあり、その時は「2週間かけて制作しても著作印税の収入が8000円ということもあります」(岡嶋さん)。これが労力に見合うと思うかどうかはその人次第で、嫌なら辞めて違う仕事を探すという世界だ。

1年間に500曲の作詞

岡嶋さんはシンガーソングライターとして路上で歌っていた20歳からの2、3年で仮歌&仮詞の仕事が高く評価されるようになり、作詞コンペ参加の依頼が届くようになった。「音楽の仕事は断らない」と決めていたから、すべてに応じているうちに若手の作詞家として少しずつ注目されるようになり、コンペの誘いが増えていった。

当時の生活は、とてもハードで目まぐるしい。昼間は渋谷のツタヤでアルバイト、夕方から夜にかけては仮歌&仮詞の仕事をして、帰宅してからは歌詞コンペの作詞。週末の昼間は、路上ライブをしていた。毎日寝不足だったが、そのうちに作詞のコツをつかみ、ペースが上がった。

「1曲につきだいたい2時間ぐらいで書けるようになりました。深夜2時ごろに帰宅して、それから朝まで3曲分の詞を書いたりしていましたね。当時は年間500曲ぐらいコンペの作詞をしていました。そのうちの1曲が採用されるか、されないかというレベルでしたけど」

筆者撮影
自らマイクを持って歌いながら、曲を仕上げていく

それだけの作詞をしたら言葉が枯渇しそうなものだが、思い出してほしい。この頃の岡嶋さんは、職場でCDを借りてあらゆるジャンルの音楽を聴きまくっていた。恐らく、圧倒的な量のインプットがアウトプットを支えていたのだろう。

2007年、23歳を過ぎた頃には、仮歌&仮詞の仕事と作詞、さらに歌を教える仕事も始めてある程度稼げるようになり、6年間勤めたツタヤを辞めて、音楽だけで食べていくことにした。

そのタイミングでもう一度、勝負に出た。自らミュージシャンに声をかけて4人組のバンドを結成し、もう一度、世界のフェスを巡る生活を夢見て、その活動にのめり込んだ。メンバーが持っていたクーラーの効かないハイエースに乗って移動し、遠方のライブは夜行バスで向かった。

安室奈美恵『Steal My Night』から始まる快進撃

「ポップスとブルースとR&Bを掛け合わせた感じの濃いめのバンド」はしかし、思い描いたようには売れなかった。コアなファンはいたものの、ライブのチケットが完売して、会場がパンパンになったのは、解散ライブが最初で最後だった。

その一方、作詞コンペでは採用されることが増えて、自信を深めていた。作詞家として一躍脚光を浴びるきっかけになったのも、安室奈美恵だった。著名な音楽プロデューサー、ジェフ・ミヤハラと組んで書いた歌詞が採用され、『Steal My Night』として2009年にリリースされると、驚くほどに仕事の依頼が増えたという。

筆者撮影
作曲家、レコーディングエンジニアのMEGさんと意見を交わしながら、さまざまな調整する