だから、円明小学校に上がっても軍事教練めいたものは一切なかったし、軍歌を歌うこともなかった。まず校歌を習った。一番だけなら今でも歌える。

光あまねく天に地に
まいを望みを満たす日の
まどけき明るさわが誇り
名もよき学舎 円明の
教えに励む我らかな
赤誠尽忠誓いては

結局、天皇陛下に忠誠を誓う内容であったが、教育勅語はなかった。

満洲は大満洲帝国であって、その皇帝は愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎである。日本の天皇ではない。しかし私たちは日本人であって満洲国民ではなかった。学校の講堂には皇帝溥儀の写真の隣に、より大きな天皇皇后両陛下の御真影をかかげているといった按配あんばいである。

「ふるさと」に共感できなかった

満洲国は奇妙な国家で、国家という名目と枠組みはあっても、国民が一人もいなかった。満洲国に住む者はそれぞれ日本人であり、中国人、朝鮮人であった。満洲国の国旗と紙幣はあったが、憲法も国歌も国勢調査もなかった。つまりは法律らしきものもなかった。

満洲国は日本の関東都督府の発展した関東軍司令部(新京)の思惑ですべてが流れていた。つまり満洲に住む日本人居留民は満洲と日本という二重思考のもとに生活していたのである。

普通なら、小学校に入るとすぐに小学唱歌というものを教わる。私たちも教わった。ところがこの唱歌たるものが、満洲の子供たちにはほとんど意味不明なのである。

うさぎおいしかの山 小鮒こぶな釣りしかの川、の『ふるさと』も、春の小川はさらさらいくよ、の『春の小川』も、菜の花畠に入り日薄れ、の『おぼろ月夜』も、しずかなしずかな里の秋、の『里の秋』もなんのことを言っているのかさっぱり分からない。そういう風景を見たことがないから共感できないし、また想像することもできない。

満洲は平野であり、山々は低く遠くにあった。そこには狼や山猫がいると教えられていた。川は大河であり、鯉よりも大きな魚が釣れた。冬には凍って道になった。生徒たちがあまりに気のない歌い方をするので、先生のほうから教えることを諦めてしまう。その頃、満洲唱歌と称して百曲ほど作られたらしいが、『ペチカ』(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)くらいが印象に残っているかな。あとは記憶にない。

ベートーヴェンの交響曲第六番『田園』との出会い

学校が懸命になって教えようとして毎日歌わされたのは『わたしたち』(園山民平作曲、作詞者不詳)という面白くもない歌だった。

寒い北風吹いたとて
おじけるような
子供じゃないよ
満洲育ちのわたしたち

あとは大人たちの歌う流行歌を口ずさむ程度で子供が胸はずませ歌うような歌は一曲もなかったと言っていいだろう。