パンチ氏は双葉社(東京)の名編集者、清水文人氏に見いだされ、1967年創刊の週刊漫画アクションでの連載で人気に火が付いた。矢口氏もその後、清水氏に見出され、同誌で『釣りバカたち』という、『釣りキチ三平』の前哨戦となる作品を1970年代初頭に連載している。

まんが美術館にはパンチ氏の原画の一部が収蔵されているが、矢口氏はまとめて預かる「大規模収蔵作家」としてパンチ氏を考えていたようだ。2019年4月にパンチ氏が亡くなった際には「まとめて預けてもらうよう頼んでおくんだった」と悔やんでいた。

撮影=筆者
矢口高雄氏の作品を紹介する映像

都会人になりきれなかった反骨精神

矢口氏がまんが美術館設立や原画保存に取り組んだのには、貧しい農家の長男に生まれ、苦労してマンガ家になり成功した人生が密接にかかわっている。1939年、奥羽山脈の麓にある横手市増田町狙半内で生まれ、子どもの頃から釣りに興じ、手塚治虫に憧れてマンガ家を志す。

館内に掲げられている、「マタギ」主人公をあしらった垂れ幕(撮影=筆者)

成績優秀で、アルバイトをしながら高校に進学し、地方銀行に就職し妻子も得る。だがマンガ家の夢断ちがたく30歳で脱サラして上京。「遅咲きのマンガ家」として、自分の生きる道を農村を描くことに定め、週刊少年マガジンに連載した『釣りキチ三平』(1973~83年)が大ヒットする。

マタギ』(1975)『おらが村』(1973)など人と自然のつながりを描き続けた作品群は近年、復刻され版を重ねるなど再評価も進んでいた。いずれも現代につながる普遍性とメッセージ性を持つことが魅力であろう。

素顔の矢口氏は、成功したマンガ家として尊敬を集めながら、どこか都会人になり切れない部分があった。東京の高級住宅街に50年近くも住みながら、都会や裕福な人々に対する複雑な思いを抱いていた。時として世の中を憂い、反骨精神を持ち、正義感あるリベラルな性分が損をしているのではないかと嘆く。その一つが「なぜ紫綬褒章をもらえないのか」だった。

ちばてつや氏、竹宮恵子氏、水島新司氏、弘兼憲史氏など多くのマンガ家が受章している中、矢口氏が入っていない方がおかしいのでは、と思わせる。「かつてリベラル系の媒体に連載をしたからではないか」と本気で悩んでいた。受章できなかった理由は定かではないが、自治体などから候補者としての推薦が出ていなかったことが一因のようだ。

出身の横手市は、居住先の東京都世田谷区が対応していると考えていたようで「大変申し訳なかった」と関係者は話していた。

撮影=筆者
美術館1階のカフェの壁はマンガのコマ割り仕立てて、訪れたマンガ家が順次、絵を描き込んでいく