経営統合で味わった寂しさと感動
振り返れば、20〜30代は法務の王道から例外まで幅広い経験を積むための修行期間になった。その後、このキャリアをベースとして、愛宕さんのフィールドはさらに広がっていく。
40代に入ると、コンプライアンス推進体制をつくり上げる担当者に。当時の日本ではまだ取り組んでいる企業が少なく、ゼロからの体制構築は試行錯誤の連続だった。悩み迷いながらも、愛宕さんはさまざまな部署から集まった推進チームのメンバーとともに、約1年をかけてコンプライアンスマニュアルを策定。知を結集することの喜びを知り、完成時には大きな達成感を覚えたという。
だが、この頃は私生活の面で離婚というつらい出来事があり、精神的には不安定な状態が続いていたそう。幾度か心が折れそうになり、出社したくないと思うこともあった。それでも仕事を続けられたのは、部下を放っておけなかったから。会社や上司ではなく「部下のため」と思うと出社する意欲が湧いた。そんな思いで目の前の仕事に取り組むうち、少しずつ以前の自分を取り戻していった。
大変な時期はその後も続く。2003年、ミノルタはコニカと経営統合。この大変化に対応するため、愛宕さんはコニカの法務担当者とともに、株式交換契約や独禁法審査などで東奔西走した。同時に、本社が大阪から東京へ移転することになり、会社だけでなく自分の引っ越し作業にも追われた。
ずっと関西で暮らすものだと思っていた愛宕さんにとって、引っ越しは青天の霹靂。住み慣れた地を離れるのはつらく、部下の中には退職してしまう人もいた。連日の激務や引っ越し作業の疲れに、別れの寂しさも重なったのだろう。新居に引っ越した夜には、段ボール箱の山に囲まれて一人泣いたという。
経営統合後の初仕事は、コンプライアンス体制の練り直し。両社の課長がそのままスライドしたため、法務部門では3人の課長が担当となった。違う企業の管理職同士が協働するとなると衝突が起きそうなものだが、3人の関係は、その頃はやっていた「だんご3兄弟」になぞらえて「コンプラ3兄弟」と呼び合うほど良好だった。
「合併後に対立が起きるケースも耳にしますが、私たちの場合は対等の立場で経営統合できたのがよかったんだと思います。コニカ出身の方々とも同じ目標に向かって働くことができ、完成した時は多様な人材と一緒に“2度目の知の結集”ができたことに感動しました」
経営統合後の大仕事を成功させ、その後もカメラ事業の譲渡契約やホールディングスから事業会社への異動などさまざまな変化を体験した愛宕さん。50代に入った頃には、法務という仕事に対する視点がさらに広がり、「事業に寄り添う法務」「役員を支える法務」を意識するようになっていった。