1日2回以上の講演活動で全国各地を飛び回る

金田正一監督に請われる形でロッテオリオンズへの入団が決まったのだ。ロッテにはわずか1年だけの在籍となったが、79年からは誕生したばかりの西武ライオンズに移籍し、翌80年まで現役生活を続けることができた。

沙知代の言う通り、本当に「なんとかなった」のだった。こうして振り返ってみると、「私が弱い」のは疑いようのない事実ではあるけれど、それ以上に「沙知代が強い」と言った方がいいのかもしれない。第一章で触れたように、味方の失敗を願ってしまった自分の身勝手さを痛感し、現役引退を決め、まずは沙知代に「ユニフォームを脱ごうと思う」と伝えたときも、彼女は何も動じることなく平然としていた。

「ふーん、そうなの」と何の感慨もない反応を示し、続けて、「なんとかなるわよ」このときも、このセリフを口にしたのだ。現役引退後、沙知代と過ごす時間が増えた。当時の私の主な仕事は、テレビやスポーツ新聞の野球解説、評論に加えて、意外なことに講演活動がたくさん舞い込んできた。そのスケジュール管理はすべて沙知代に任せていた。

マネージャーとしての彼女はもうメチャクチャだった。舞い込んだ依頼はほぼすべて受けていたため、1日に2回、ひどいときには3回も講演した。休日もほとんどなかった。沙知代に命じられるまま、全国各地を飛び回る日々が9年間も続いた。

「オレを殺す気か!」と沙知代に言ったことは一度や二度ではない。それでも、身体は大変だったけれど、多くの人に必要とされていることが嬉しかった。貧乏だった少年時代のことを考えれば、こうして仕事に恵まれ、それなりの報酬を得られることも幸せだった。人は他人から必要とされたり、求められたりしたときに幸せを感じるのだろう。

沙知代はベストパートナーだった

こうした評論、講演活動が認められて、1990(平成2)年からはヤクルトスワローズの監督を務めることとなった。92年には14年ぶりのセ・リーグ制覇を実現し、翌93年には当時黄金時代の真っ只中にあった西武ライオンズを破り、悲願の日本一に輝いた。ヤクルトでは、本当にいい思いをさせてもらった。

野村克也『弱い男』(星海社新書)

95年、97年と、在任9年間でリーグ優勝は4回、日本一には3回も輝いた。その後も、阪神タイガース、社会人野球のシダックス、そして東北楽天ゴールデンイーグルスでも監督を任された。

現役時代、評論家時代、そして監督時代――。改めて振り返ってみても、なかなか充実した野球人生だったと思える。監督として結果を残せたことも、残せなかったこともあったが、大好きな野球と関わり続けることができたのは本当に幸せだった。

かつて南海をクビになり、暗澹たる思いで東京に向かっていたあの日の東名高速のことを思えば、こんなに充実した人生を送れるとは思ってもいなかった。しかし、沙知代にとっては「そんなことは当たり前よ」という心境なのだろう。

彼女の言う通り、本当に「なんとかなった」のだ。根っからのマイナス思考の私にはとても真似のできない考え方だが、人生を生きる上での大切な処世術だ。いろいろ言われることの多い妻だったけれど、私にはベストパートナーだった。沙知代が亡くなった今、改めてそんなことを感じているのである。

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