「それでも圧力をかける」政治とどう対峙するのか

ここまで述べてきたような組織の性格を考慮するとき、日本学術会議が機能していた、機能していなかったかにかかわらず、あくまで日本学術会議の在り方は自律的なものが中心となるべきで、研究者コミュニティとの対話や、法改正を通じて行われるべきものであったことは疑いえまい。それらは成熟した自由民主主義国にとって、近年でこそ強権政治の台頭で揺らいでいるものの、芸術、表現、学問はそれらの自律に委ねるのが常識だった。

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しかし、同時に、「それでも圧力をかける」という、多くの自由民主主義国が設置し、その自律的な活動を認めているアカデミーの日本版である日本学術会議に嘴を挟もうというこれまであまりなかった狭量さを見せ始めた政治とどのように対峙するべきか。そのことが問われているのではないか。このとき、筆者は、あるかないか、もしくは生き死に例えられがちな「学問の自由」なる抽象的命題を錦の御旗の争点にしたところで、交渉上、もしくは世論への訴求を考えるとあまり有利ではないと考えている。

大学は「役に立たない」という誤解が浸透している

残念ながら、これまできちんと自分たちについて説明することが十分ではなく、社会と信頼関係を取り結んでこなかったがゆえに、日本の研究者や大学、学問が社会から十分な信頼や評価を得られていないためだ。日本の政治、経済、社会の各セクターには、大学や研究者は実態から乖離かいりして、それらがもはや役に立たないという誤解が相当程度浸透してしまっているからだ。だがもちろんそれらは人文社会科学系を含めて、誤解である。

例えば文系でも、最近のAIや遺伝子操作技術の発展に際して、規制をどのように設計するか、倫理的観点をどのようにルールに反映させるか等で、明らかに「役に立って」いる。何が「役に立つか」を事前に予想するのが難しいからこそ、そしてイノベーションも定義上、予見困難だからこそ、豊かな社会であれば、それかそれを目指すのであれば、学界「も」豊かにし、自律させておくのが、成熟した自由民主主義国では経験的に当然視されてきた。このとき、もちろん社会や政治、財界との説明と対話、連携が必須であることも当然であろう。