ファッションにくらべて食には日常性がある

社命を受け日本に戻るか、魅力を感じている香港に残るか。残るとすれば独立するか別の会社に行くかと悩んだ末に、起業の道を選んだ。そして、食と雑貨に照準を合わせる。

「石川さんはずっとファッション畑を歩んできた方ですが、それゆえにファッションは当たりはずれがあることをよく知っていました。しかし、食ならば日常性があり、ファッションほどムラはない。何より、豊かになりファッションに目覚めた香港人が次にレベルアップするのは食だと見抜いていたんです。ただし、普通のスーパーじゃ通用しない。世界中からすぐれた食材を集めて雑貨とともに香港人に提供しようとした。これが、シティスーパーのコンセプトです」

幸いなことに資金提供者も現れた。60年代から香港でビジネスを展開し、ニット製品の対日輸出で成功を収めているフェニックス・グループの荻野正明だ。資金面の問題を解決し、96年8月、石川は部下5名とともに会社を設立した。

ウーもこの時の創業メンバーの1人。「起業をするからいっしょにやろう」と誘われ、またも「成り行き」で参画を決意。ウーが石川の誘いを受けるのはこれで2度目だ。この人に頼まれたら「NO」とは言えない。そんな抗いがたい魅力を持つ人間はこの世に確かに存在する。おそらく、石川もその1人だったのだろう。磁石のように吸い寄せられたメンバーが結集し、シティスーパープロジェクトは急ピッチで動き出した。

石川の圧倒的な磁力のなせる技なのか。1号店にふさわしい物件はタイムリーに見つかった。香港財閥のワーフグループが保有するヤングファッションの専門店、レインクロフォードは、香港島の銅鑼湾(コーズウェイベイ)にあるタイムズスクエアに店を構えていたが、売り上げ不振にあえいでいた。石川は、かねてからの知り合いでもあるレインクロフォードの経営者から「ウチが撤退するからここに出ないか」と持ちかけられ、1号店の場所はあっさりと決まる。

「いま思えば、奇跡としか思えない。人もいて、アイデアもあって、資金も用意できた。物件も確保できた。タイムズスクエアはいまのようなにぎわいはなく、リスクのある出店ではありましたが、私たちには自信と信念があった、だから賭けに出たのです」

タイムズスクエア自体が開業したのは93年。日系の百貨店が集中していた銅鑼湾から400メートルほど西に離れた場所にある。レインクロフォードが徹底を余儀なくされたことからもわかるように、当時は集客力の低いロケーションだった。

恵まれた場所ではなかったが、石川をはじめシティスーパーのメンバーは香港の食卓に新しい風を送り込もうと、わずか4カ月で商品を調達し売り場を整え、96年のクリスマス直前にオープンにこぎつける。世界各国からセレクトした食材が緻密にディスプレイされた店は新鮮であり、業界関係者を驚嘆させたが、最初の1年間は苦戦が続いた。

「場所も良くないし、そもそも香港の人間は誰もシティスーパーのことを知らない。広告するお金もなかったですからね。それでも、1度利用したお客さんは店にいい印象を持ってくれて、口コミで評判が広がっていった。だんだんと、シティスーパーを目的にタイムズスクエアを訪れる客が増えていきました」

シティスーパーは、ターゲットの世帯収入は特に設定していなかったが、次第に客層が固まってきた。世帯収入は香港のトップ5%に属し、比較的学歴の高い25歳?45歳の世代が中心だ。女性の比率は約6割。

意外に男性客が多いのは、香港が完璧な共働き社会であり家事を担うのが女性ばかりではないこと、もう1つは男女を問わず香港人が「食」に対して途方もなくどん欲でアグレッシブだから、と私は見る。

「食」に飽くなき情熱を注ぐ香港人に応える品がシティスーパーにはあったのだ。

客の3割は外国人。香港市民対象の店としては高いともいえるが、もともと香港は世界中の人々が集まるインターナショナルシティだ。外国人が多いのは当然か。

下世話な表現をすれば「筋のよい」客に支持されたことで、シティスーパーのイメージは一気に高まった。不信を囲っていたタイムズスクエアを活性化してくれたと、オーナーのワーフグループはシティスーパーに資本参加を決めたほとだ。