学術会議は「学問をする」ための機関ではない

このことをふまえて日本学術会議を見てみよう。日本学術会議法を根拠として、学術会議が作られたのは、科学の振興を図る国家政策への寄与のためだ。したがって、学問をする制度としての学術機関とは言えず、憲法上の「学問の自由」の保障とは関係がない。まして学術会議の委員の任命や、委員会で政治的決議を採択することなどは、憲法上の「学問の自由」の保障とは、全く関係がない。

それにもかかわらず、憲法規定を、特定集団の特権を正当化するために濫用するような行為は、憲法秩序を破壊し、国家を危機に陥れる危険な行為である。

福沢諭吉も書いた「官職」と「学者」の関係

かつて福沢諭吉は、明治初期に著した『学問のすゝめ』で、学者が官職を求める当時の風潮を嘆いて、次のように述べた。

この学者士君子、みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居るの道を知らざるの一事なり。……今世の洋学者流はおおむねみな官途につき、私に事をなす者はわずかに指を屈するに足らず。けだしその官にあるはただ利これ貪るのためのみにあらず、生来の教育に先入してひたすら政府に眼を着し、政府にあらざればけっして事をなすべからざるものと思い、これに依頼して宿昔青雲の志を遂げんと欲するのみ。

その福沢は、「中津の旧友に贈る文」で、次のように自らの気概を述べた。

小安を買わんより、力を労して倹約を守り大成の時を待つに若かず。学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながらもできるものなり。

研究費がなければ、研究は進まない。国家の政策に影響を与えたいという気持ちもあるだろう。それは誰にとっても一緒だ。私自身も、感謝の気持ちを持ってお給料をいただき、研究費をいただいている。そのうえで偉そうに国家政策の是非を論じたりしているときもある。卑しく傲慢な人間だ。だが、だからこそ、少なくとも、官職を得ることに狂奔したりはしたくない。福沢諭吉はこう述べている。

人民もし暴政を避けんと欲せば、すみやかに学問に志しみずから才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからず。これすなわち余輩の勧むる学問の趣意なり。

学問を志す者に、貴賤上下の差別はない。国家に認められれば、それも良し。仮に認められなくても、気概を持ち、学問を続けていきたい。

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