ユニフォームを脱ぐと決めたのは自分だった
45歳のとき、私は現役生活に別れを告げ、ユニフォームを脱いだ。正直、もっと野球をやりたい気持ちはあった。50歳までは何とか現役で頑張りたいと思ってたんや。
でも、それは無理な話だった。誰かにハッキリと言われたわけではないが、周囲の人間たちが、「そろそろ……」と思っているであろうことは感じていたからだ。「引き際を意識したほうがいいかもしれん」と思うことも増えていった。
それでも、「俺にはまだやれる」という自信があった。確かに、バッターとしての成績は落ちてきていた。以前はスタンドまで飛んでいた打球が、手前で落ちるようになってきたこともわかっていた。それでも現役にこだわったのは、キャッチャーとしての技術が衰えたとは思えなかったからだ。
守備範囲が広くないので、歳を重ねてもキャッチャーは務まると私は考えている。何より経験を重ねていくことで、相手選手の情報量も増え、配球やリードについての考え方も深まり、どんどん味が出てくる。
この点は、若手キャッチャーも簡単には真似できないだろう。さすがに衰えが顕著になってきた肩については、距離がダメな分をスピードでカバーするためにスローイングの練習を毎日行うなど、できる工夫を凝らしていた。
そんなわけで、少しでも長く選手として活躍したいと思ってやってきたのだが、監督やフロントの判断は違った。少しずつ控えに回ることが多くなっていき、西武に2年在籍したが、現役引退することになった。
引退を決意した理由は、まわりの空気を察したからでも、控えの回数が増えたからでもない。私自身の意思で決めたことだ。
チームの勝利ではなく、失敗を願ってしまい愕然
忘れもしない、1980年9月28日の阪急ブレーブス戦、8回裏のことだった。
私ははじめて代打を出された。1アウト満塁、1点を追う状況で、犠牲フライで同点という場面だ。外野フライなら打てる自信があった。しかし、監督は代打を告げたのだ。
代わりに打席に入ったバッターに、「失敗しろ」と私は無意識に念じていた。結果、ショートゴロの併殺打に終わり、「ざまあみやがれ」とそのときは喜んだ。
だが、帰りの車中で気づいたんや。
「俺はチームの勝利ではなく、失敗することを願っていた……」と。
それまでずっと、個人の成績よりもチームの勝利を第一にすることを信条としてきた。兼任監督のときには選手たちにも、「チームの勝利が第一」と何度も伝えてきた。それを忘れて、自分の代わりに出たバッターの失敗を願っていたのだ。
愕然としたが、これはもう潮時だと感じた。これ以上続けても、自分の出番を優先したいと思うことで、いずれチームに迷惑がかかることが目に見えた。