子どもは“動物”として生まれてくる
現代社会の子どもを考える際、まず思い出していただきたいのは、子どもははじめから現代人として生まれてくるのでなく、子どもは“動物”として生まれてくる、ということだ。
ここで言う現代人とは、現代社会が個人に対して期待するとおりの機能を持ち、権利や責任の主体者たりうる人間、社会の通念や習慣がインストール済みで、社会のルールや法制度を理解し、資本主義や個人主義や社会契約に則った行動がとれる人間のことを指す。これらの機能や主体性を持ち合わせない状態で子どもは生まれてくる。
生まれたばかりの赤ちゃんは言葉すら知らない。赤ちゃんは本能のままに泣き、本能のままに世話される。赤ちゃんを育てる際、親は現代社会の通念や習慣のとおりにでなく、赤ちゃんの本能に沿って世話をしなければならない。
赤ちゃんは母乳を吸うことは本能的に知っていても、「街中で大きな声で泣くと、周囲の人に迷惑がられる」といった現代社会の通念など知らない。「不快な臭いは迷惑」という理由で大小便を我慢することもない。このため、社会の通念や習慣を内面化した親が赤ちゃんを街で連れ歩く際には、赤ちゃんの行動が周囲の人々の迷惑にならないか気を揉むことになる。
小学生ですら「現代人」としては未完成
たとえば新幹線のなかで赤ちゃんが大声で泣きだした際には、親は申し訳なさそうな顔をしてデッキに移動し、赤ちゃんをあやしはじめる。親だけでなく、赤ちゃんの側にも苦労はあるだろう。たとえば幸運にも、年収2000万円の東京都内の落ち着いた家庭に生まれたとしても、秩序の行き届いた安全なメガロポリスに生まれてきたことを赤ちゃんは知りようがない。あるいは電車のなかにベビーカーごと連れてこられた赤ちゃんから見て、見知らぬ男性に囲まれ、母親が緊張した顔をしている状況はどのように見えているだろうか。またあるいは、子ども部屋に一人で置き去りにされた時間を、赤ちゃんはどのように感じているだろうか。
幼児~小学生になったあたりでも、子どもはまだまだ動物的で、現代人として完成の域には遠い。歩行者は歩道を歩くよう定められていることも、赤信号で横断歩道を渡ってはいけないことも、座学の時間には行儀良く座っていなければならないことも、ホモ・サピエンスが生まれながらに身に付けていることではない。それらは現代社会の制度や習慣に基づいたものだから、いちいち教わり、身に付けていかなければならない。
多くの子どもは、やがてそれらを身に付けていくだろう。とはいえ年少の段階ではそれらはしっかりと身に付いていないから、たとえば子どもが車道近くにいるのを発見した自動車ドライバーは、リスクを感じながらその脇を通り抜けなければならない。
思春期を迎える頃にもなると、ほとんどの子どもは現代の通念や習慣をおおよそ身に付け、それらに沿って行動できるようになる。それでも大人に比べれば身に付けている度合いは完璧とは言えず、親や教師や世間をハラハラさせたりもする。