「神社は宗教にあらず」という言葉に潜む危うさ

【佐藤】森友学園問題というものがありました。森友学園の元園長・籠池さんに対して「幼稚園児に教育勅語を読ませるのはおかしい」云々うんぬんという批判がありました。

池上彰、佐藤優『宗教の現在地 資本主義、暴力、生命、国家』(角川新書)

私はそのことよりも、もっと根源的な問題があると思っています。大意を述べると、神道教育の趣旨は「神道は宗教ではない」という教育を行うことだ、と彼はいっていました。私はここに強く引っ掛かると同時に、怖いな、と思ったのです。それは、この発言に対する批判がどこからも出なかったからです。

戦前は、伊勢神宮にしても、氷川神社や日枝神社にしても、「神社は宗教にあらず」といっていました。神社は宗教ではなく、日本国民(当時は臣民)の慣習だ、と。慣習だから、誰もがみな神社に行き二礼二拍手一礼をしないといけない、神社が出す神札は取らないといけない、といわれた時代でした。

つまり、国家が宗教を国民に押しつけるときは、必ず慣習という形で現れてきます。「宗教ではない」という形で、特定の宗教が国教になって現れてくるのです。だから、ことさら「宗教ではない」ということは、かえって宗教的意味合いが大きいことを逆説的に示してしまう。さらに、その言葉への批判がないというのは、かえって国教的な性格を補強してしまうという意味で、怖いのです。

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