東郷外相の「乙案」も承認される

その後、外交交渉の条件の検討に入り、東郷外相は、先の内容の甲案とともに、突然、それまで非公式にも議論されたことのない「乙案」を提案した。

その内容は、日本が南部仏印から撤退する代わりにアメリカは日本に石油を供給する。また両国は蘭印におけるに必要な物資獲得に相互に協力する、との暫定的な協定案だった。

この乙案に杉山参謀総長・塚田おさむ参謀次長は激しく反発した。だが、武藤は、休憩中に、東条も交え、杉山・塚田を説得した。

乙案を拒否すれば、外相辞職・政変となることも考えられる。その場合には次期内閣は非戦となる公算多く、開戦決意までには、さらに日数を要すことになる、と。武藤は連絡会議幹事として常時出席していた。

杉山らは、日中戦争解決を妨害しないとの趣旨の文言を入れることを条件に、この説得を受入れ、乙案は承認された。

嶋田海相、突然の大転換

こうした動きのなかで、大きな変化が生じた。それは海軍の大転換である。数日間の会議の終盤(10月30日)、嶋田海相は、沢本頼雄海軍次官や岡敬純軍務局長ら海軍省幹部にこう語った。

数日来の空気より総合すれば、大勢を動かすことは難しい。ゆえに、「このさい戦争の決意をなし」、今後の外交は大義名分が立つように進め、国民一般が正義の戦いだと納得するよう導く必要がある、と。戦争決意を示したのである。

これは重大な発言だった。嶋田は会議前には、外交はぜひ実行したい。できるだけ戦争は避けたい、と語っていた。沢本次官は、嶋田の開戦決意に対して、「大局上戦争を避くるを可とする」、と同意しなかった。岡軍務局長もまた日米開戦には慎重な姿勢だった。

だが、嶋田は、このさい海相(自分)一人が戦争に反対したために時期を失したとなっては申し訳がない、として沢本らを押し切った。これにより、一貫して開戦に慎重姿勢をとってきた海軍省が、開戦容認に転換したのである。

陸海軍ともに「日米開戦やむなし」が大勢に

永野修身軍令部総長ら軍令部首脳は、原則的に海相や政府が決定すれば、それに従うとのスタンスだった。ただ、問題は和戦の決定時期が切迫していることで、ずるずると外交を続け、時機を逸してから戦争をせよといわれても、責任を取れないと言明していた。

軍令部内部でも、伊藤整一次長は、緒戦はともかく2年目以後は「説明の如き国家資源では自信なし」として日米戦争回避の考えだった。福留繁作戦部長も、日米開戦には慎重姿勢だったが、それに代わる説得的な選択枝を提起できず苦悶していた。

海軍は、次官、軍務局長、軍令部次長、作戦部長ともに慎重姿勢のなかで、嶋田海相が、開戦やむなしとの判断を示したのである。