なぜ「楽して死にたい」と考えたか

その逃走途中、京都伏見の小栗栖おぐるすで落武者狩りに討たれたのである。竹槍で脇腹を刺されたと言われている。普通、槍で刺されると、当時の人は熱した鉄の棒でえぐられた気になったものだが、竹槍で刺されるのはもっと悲痛である。熱した鉄の塊を脇腹に強く押し当てられた激痛が走る。突然繰り出された竹槍に光秀は脇腹を刺され、落馬。致命傷と悟った光秀は、自刃したと言われている。

敗走中に、いきなり竹槍で刺さられて、その直後、自刃した光秀。その死は無念の一言に尽きる。しかし、光秀を倒し、天下人になったものの幼子・秀頼を遺して死んでいく秀吉の死に比べて、無念ではあったが後悔のない死に様ではなかったかと、私は思っている。

私が戯言で、「楽して死にたい」と話したのは、秀吉のように「頼む、頼む」と頭を垂れて死ぬのではなく、光秀のように後腐れのない死に様を望んだからだろう。

朝夕の食事にも事欠くほど貧しかった

英傑ではあったが、英雄にはなれなかった男、それが明智光秀である。

光秀の前半生は資料で伺い知ることができず、その多くは謎に包まれている。歴史の表舞台に登場するのは、信長の家臣となる永禄11(1568)年で、光秀41歳のときだった。

若き日の光秀は流浪の日々を過ごし、貧困にあえいでいた時期もあったと聞く。出自は美濃国の守護・土岐氏の一族と言われる明智氏のもとに生まれたとされているが、それさえも定かではない。とはいえ、明智氏のもとに生まれたとすれば、光秀29歳の頃に明智城が美濃国守護代・斎藤義龍の侵攻により陥落し、美濃を逃れた。

美濃国では名門と言われている土岐氏の末裔として高い教養を身につけた光秀は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えたが、将軍・義輝は松永久秀に攻められ闘死してしまう。主君を失った光秀は浪人となり、各地を転々とした。朝夕の食事にも事欠く貧しい生活を送っていたと言われている。

貧しさと隣り合わせの生活を、私もまた送った。私が3歳のときに父親は日中戦争で戦死し、母親が女手一つで兄と私を育ててくれたのである。貧しい暮らしだった。父親がいないこと、貧乏なこと、10代の私はずっとその劣等感を持って生きていた。

野村克也と光秀にある「2つの共通点」とは

武将もまた勝負師に近いものがある。基本的に勝ち負けの世界で生きる者は何事につけても慎重である。その典型は私なのだが、それでも「これだ」と思ったら、時には他人の言葉に耳を貸さず、我が道を行くことも必要だ。

武将たちもその点は同じで、信長の「桶狭間の戦い」、光秀にとっての「敵は本能寺にあり」、秀吉の「中国大返し」がそれである。