世間の“当たり前”との距離感

なぜそんなことをするかといえば、僕は小さい頃から常識を気にする子だったからです。「こんなことをしたら怒られるんじゃないか」とか「普通はどうしているんだろう?」とか、そんなことばかり心配していた。だから世間の“当たり前”が気になって仕方ない。

すると今度は、「どれくらいズレると普通じゃなくなるのか」を考えるようになる。“普通”からどれくらい離れると面白いと笑ってもらえて、どれくらい離れすぎると周囲を不安にさせてしまうのか。その距離感を意識するクセがついてしまいました。

撮影=ヨシノハナ
毎日のように手帳に描く気付きや妄想が創作の支えになることも。写真の右イラストには「一人だけにもつが大きいとはずかしい」とあり、当たり前との距離感を観察していることが分かる

だから今回の輪ゴムにしても、「どこまで伸ばしていいか」「何だったら束ねてもいいか」と問いかけながら、ちょうどいい面白みの距離感を作っていったんです。

僕がやっていることはビジネス書に書かれている「フレームワーク」そのもの。構成要素を書き出してさまざまな問いかけをしながらアイデアを出し集約させていきます。きっとみなさんもオフィスで似たようなことをしていると思いますし、僕自身が何か特別なことをしているわけではありません。

絵本の内容だって突飛なことを表現しようとは思っていなくて、むしろ「人から怒られないように無難なことをしよう」というのがもともとの目的だったわけです。でもそれが、結果的に絵本やイラストを描く仕事で役に立った。

だから僕が話していることは、すべて結果論なんですよ。たまたま僕はこれでうまくいっただけで、「みんなも僕と同じようにやれば成功するよ」なんてとても言えないです。

僕が子供の時に、大人に言ってほしかったこと

もともと僕は、「俺のいうことを聞いてくれ!」と駅前でギターをかき鳴らすようなタイプでないと作家になれないと思っていました。それに対して、自分は「どうすれば人に怒られないか」ばかり考えてきた。

撮影=ヨシノハナ

でも、そんな僕でも「自分には言いたいことはない!」ということは言えるわけです。「僕は答えなんか持ってない。他人から何か言われたら、すぐ“そうだよね”って思っちゃうくらい流されやすいんだよ!」ってことは堂々と言える(笑)。だから自分に自信がないと何も表現できないわけではないんですよね。

自分自身は何が正解かもわからないから、ぼんやりとしたものを描くしかないのですが、そういうぼんやりとしたところで生きている人もたくさんいる。

大人は分かったようなことを言わなければいけない立場だとしたら、そのままの部分を子供に伝えてもいいはずです。自分が子供の時にそれを言ってもらえたら少しホッとしたと思います。子供側も、だったら大人にもう少し優しくしようかなとなるかもしれない。

だから僕がそのぼんやりとした部分を描くことで、救われる人もいるんじゃないか。何より僕自身が、「正論としてはわかるけど、でもそれってできないよね」と傷をめ合って生きていきたいなと思っているんです。

(文・構成=塚田有香)
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