西海岸のピアノバーに雲隠れして専属歌手に
当時、まともにアーティストをサポートしてくれない不本意なマネジメント契約にビリーは辟易し、マネジャーから逃げるように西海岸にやってきたが、仕事がない。ようやくありついたのが、ピアノバーの専属歌手だった。雲隠れした手前、大っぴらに名前を出すこともできず、「ビル・マーティン」の名で一晩に30分間のステージを5、6本こなし、文字どおりピアノマンの真骨頂を発揮していく。
恋人のエリザベスは、大学で経営学を学びながら夜はビリーのバーでウェイトレスとして働き始めた。ピアノの弾き語りをしながら客席を毎日観察していたビリーの経験をそのまま歌にしたのが、『ピアノ・マン(Piano Man)』だ。
常連客が集まってくる
すぐ近くの席の爺さんは
ジントニックがお気に入り
ウェイトレスの客あしらいは見事なもの
やがてサラリーマンたちは酔いが回ってくる
そう、みんな孤独という名の酒を酌み交わしている
でもひとりで飲むよりはましなんだ
1曲頼むよ、ピアノマン
今宵は俺たちのために
みんな歌に酔いしれたい気分なんだ
あんたの歌でいい気分になれるんだ
ピアノバーの看板シンガーとしての人気ぶりがうかがえる。だが、一度はレコードデビューした身だ。西海岸で半ば潜伏生活でくすぶっている自分自身を印象的な歌詞で斬ってみせる。
「あんた、こんなところじゃ、もったいないな」
崩れ始めた夫婦関係、諦めの気持ちを歌う
だが、エリザベスと結婚し、ビリーが順調にヒットを出すようになると、エリザベスはマネジャーに就任する。ビリーが売れれば売れるほど、エリザベスはビリーを上回るほどの権力を振りかざすようになる。
経理も任せていたが、ビリー以上に自分の取り分を確保するなど目に余る行動にビリーは彼女との距離を置き始め、やがて夫婦の関係が崩れ始めていく。関係を維持したい気持ちともうどうにもならない諦めの気持ちを歌ったのが、『夏、ハイランドフォールズにて(Summer’Highland Falls)』だ。
僕にできるとといえば遠巻きに慰めるしかない
僕らはいつも状況に左右されるしかないから
悲壮感と陶酔感の間を揺れ動くんだ
「2人の関係にほころびが現れてきて、夫婦を代表して僕が感じ取った悲しみを曲にしていたんだと思います」とビリーが振り返る。
そのころ、君は君のままが美しいと歌う『素顔のままで』という名曲を書いている。むろんエリザベスをモデルにしたものだが、それは幻想だったとビリーは言う。
「今にして思えば、2人の関係は絶望的だとすぐ気づくべきだったんですね。結局、がらりと変わってしまった人に対して、(君は変わらなくていいんだと語りかける)歌を書いたことになりますね」