高校は入学3日で中退
1994年、中学校2年生の時に、母親がジャニーズ事務所に履歴書を送り、いやいやジャニーズ入り。しかし、それから5年間は「踊りを極める」という目標を自ら設定し(※1)、努力を重ねます。
高校は入学3日目に校門の前で引き返すという形でやめています(※2)。そのことをジャニー喜多川に告げたところ、「じゃあ、京都行く? 京都の舞台だったらメインで踊れるよ(※1)」と誘われ、京都行きを決意。『KYO TO KYO』という舞台に出演します(※1)。
この舞台は、約半年の公演期間中、京都で暮らさなければいけないのはもちろんのこと、1日5回公演というハードスケジュール。1000人入る劇場で、お客さんが50人しかいないようなこともあったといいます。つらすぎて、フライングで吊るされながら泣いていた日もあったという大野(※2)。
それでも「生まれて初めて無我夢中になれた(※1)」というほど踊りには熱中でき、2年連続で京都での舞台を終えます。その後、少年隊の舞台に出演した後、事務所を辞めようと、ジャニーさんに直訴します。ですが、ジャニーさんに「レコーディングを手伝ってくれ」と呼ばれ、楽譜を見たら“嵐”“大野ソロ”と書かれていた……。というのが嵐のメンバーになるまでの流れです(※1)。
嵐に就職するまで、人生流されてきた
そんな大野も、デビューをすれば、さすがに腹をくくるかと思いきや……。
「最初の何カ月かはどうやったら逃げられるんだろうってことばかり考えていた。どうやったら抜けられるかなって(笑)(※1)」
生放送に遅刻して怒られた時に初めて、「『ああ、もうJr.の頃のようにはいかないんだ。就職しちゃったんだ』って気持ち(※1)」になって、「ちゃんとやらなきゃ(※1)」と感じたのだといいます。
ところどころできちんと努力はしているものの、大野にとって“嵐という就職先”が訪れるまでは、割と流されてきた人生だったのです。ジュニアに応募したのは母親ですし、嵐に選んだのもジャニー喜多川です。
この“就職するまでは、人生流されてきた”という感覚は、多くの人に当てはまるものかもしれません。自分が本来やりたかったことを実現できる職業に、最初から就ける人など、本当にひと握り。それは動かしようのない事実で、大野もそのひとりだったのです。