政治委員は「除去」せよ

絶滅戦争の対象になったのは、民間人だけではない。ソ連軍の各級部隊に配された指揮官の政治的補佐役、「政治委員」も殺害の対象とされた。政治委員とは、共産党による軍指揮官の統制のため、各級部隊に配されていた政治将校で、ヒトラーからみれば、ボリシェヴィキの核心分子と思われたのである。

独ソ開戦前の1941年3月30日、ヒトラーは、国防軍首脳部との会議において、来たるべき対ソ戦においては、政治委員は捕虜に取らず、殺害するとの方針を示した。OKW統帥幕僚部は、このヒトラーの意向を受けて、「コミッサール指令」(正式名称は「政治委員取り扱いに関する方針」)と通称される命令を起案する。そこには、作戦地域において抵抗した、あるいは、過去に抵抗を試みた政治委員は「除去」する、また、軍後方地域において疑わしい行動を取った政治委員は、出動部隊に引き渡すべしと定められていた。

本指令は、1941年6月6日に、配布先は各軍・航空軍司令官までとするとの留保付で、陸海空三軍の総司令官に下達された。それ以下の職階にある指揮官には、口頭で伝えることとされたのだ。国際法に反することを承知しているがゆえの措置であることはいうまでもない。また、1941年秋からは、ユダヤ系のソ連軍捕虜も殺されることになった。

「コミッサール指令」の皮肉な結果

こうして、ドイツ軍の捕虜となった政治委員やソ連軍のユダヤ人将兵は苛酷な運命を強いられる。通常のソ連軍捕虜から分別されたユダヤ人のうち、約5万人が命を失ったと推計されている。政治委員については、捕虜となった者およそ5000名が前線地域で殺され、別の5000名が捕虜収容所や後方地帯で処刑された。これら、戦時国際法に反する殺戮さつりくは、出動部隊や公安警察ばかりか、国防軍部隊によっても実行された。

ところが、コミッサール指令は、皮肉な結果をもたらした。捕まれば殺されるのだと知ったソ連軍の政治委員たちは、たとえば、包囲された絶望的な状況にあっても、徹底抗戦を命じ、ドイツ軍を悩ませるようになったのである。ドイツ軍の前線指揮官たちは、コミッサール指令の撤回を求めたが、ヒトラーは頑として応じなかった。包囲されたソ連軍部隊の投降をうながすためにという理由で、コミッサール指令が「実験的」に停止されたのは、ようやく1942年5月になってのことであった。