どれくらい経ったかはっきりとは覚えていませんが、3時間くらいでしょうか。フッと手のひらを返すように、「奴らを殺してやる」から「殺すのは自分だな」に、忽然として心持ちが変わったのです。これは自殺するわけではなく、“我”を嫌ったトランプやロッキーと同様、我執を取り除いていこうということ。「俺が、俺が」の心を殺すと、相手がこちらに“溶け込んでくる”んです。

結局、あいつらはその程度の人間だった

すると、次第に「結局、あいつらはその程度の人間だった。可哀相な奴らだ」と感じるようになりました。普通に考えれば、非は専務と常務にあるのは自明でした。しかし、善悪や好き嫌いという対立概念は、本来は1つ。この考え方を「不二一体」といいますが、これは、我執の壁を乗り越えて事象そのものを見るのに非常に大切な概念なんです。

善悪を排せば、この件で自分は代表取締役であり、彼らは自分が雇ったのだから、自分が責任を持つのが当たり前。だから彼らを告訴はせず、すべて自分が呑み込む。我執の壁を越え、恨み辛みも愚痴も解き放して、心を空っぽにしてすべてを一身に受け止める。自分の責任と許容範囲において、すべて自分が悪かった、馬鹿だったということを受け入れる――そんな心境にたどりつきました。

たとえるなら、コップの水の中にごちゃ混ぜになって澱んでいた煩悩、執着、恨み辛みという塵芥が、次第に底に沈殿し、水が澄んでいくような感じ。老師という志を持っていたおかげで援助者も多く現れ、多数の役人への謝罪と借金返済に、ガムシャラに集中できました。おかげで2年ほどかけて、延滞金も含めたすべてのお金を返しました。

禅の修行をしていない状態でこんなことに遭遇していたら、もともと気性が人一倍激しいだけに、一昼夜悩んだだけではどうにもならず、「悪いのは俺じゃなくてあいつらだ」という我執に執われたまま、立ち直るのに何倍も時間がかかったろうし、このとき“我執”を殺し尽くした経験がなければ、老師にはなれなかったと思います。自分を殺し切ったところに英雄、王者たらんとする気概が出てきます。それが器です。本当に凄みを帯びた人は、相手がいかに立派で権威を持つ人でも容赦せず、かつ虚心坦懐に当たるものです。

室町憲寿
ゼンマスター 臨済宗老師
1957年生まれ。プロボクサー、代議士秘書、全国紙記者等を経て、98年慶應義塾大学大学院で経営学修士を取得。19年一般社団法人室町義塾を開塾。
ken.officelegato@gmail.com 090-5770-5483
 
(構成=篠原克周 撮影=小原孝博、石橋素幸 写真=Getty Images、時事通信フォト)
関連記事
孤独を楽しんでいる人が持つ"2つの条件"
なぜ日本はブッダとイエスをイジれるのか
余裕がない人ほど職場をダメにする仕組み
外国人の質問「神社と寺の違いは」神回答
ミスを許さない日本社会が超非効率なわけ