中国側に動きをつくらせる外交努力に出た
そこで中国側に動きをつくらせ、それをテコに対中経済協力の敷居を下げる外交努力をすることになった。私も何度もアメリカに足を運んだが、アメリカ側は世論を納得させる決め手を何にしたらいいか決断しかねていた。われわれには時間がない。そこで当時、北京のアメリカ大使館にかくまわれていた方励之の出国問題に絞って工作することにした。
方励之は物理学者だが、天安門事件の理論的指導者でもあった。彼の出国は人権問題での進展を意味する。橋本大使にも積極的に動いてもらった。この間の経緯は、2007年6月、伊藤正産経新聞中国総局長(当時)が橋本大使に対する取材も加味して記事にしている(「反体制天文物理学者・方励之氏 中国出国、日本が協力」Sankei Web。2007年6月18日)。橋本大使に対する感謝の気持ちは、あの当時の駐中国アメリカ大使だったジェイムズ・リリーから97年、私も直接聞いている。
経済協力を再開しNPTへの参加を約束
その後、米中の直接接触の模様もいろいろ語られているようだが、日本の動きが方励之出国に大きな役割を果たしたことは間違いない。そうすることにより中国が待ち望んでいた日本の経済協力が再開される可能性が高まるからだ。90年6月25日、方励之夫妻の出国が実現した。同年7月9日から11日まで開かれたG7ヒューストン・サミットにおいて、日本の対中円借款の再開に異議を唱える首脳はいなかった。
91年7月のG7ロンドン・サミットにおいて、海部首相は訪中について各国首脳に仁義を切った。海部首相は翌8月、天安門事件後、G7首脳として初めて中国を訪問した。このとき中国側に働きかけて中国の立場を変更させ、NPT(核不拡散条約)への参加を約束させた。中国に改革開放政策を続けさせ国際社会にさらに関与させるという日本の外交目的は達成された。