並々ならぬ京都への愛着
別の証言にも耳を傾けておこう。長らく侍従として仕えた日野西資博もまた、天皇の京都弁を伝えている。天皇は、臣下のごまかしや噓を非常に嫌がった。ものを壊したりしてもすぐに申告すれば、
くらいで済んだが、ごまかしたり、あとで発覚したりすると、
などと雷が落ちた。もっともな怒りではあるものの、関西風の言い回しだと凄みも増して感じられる(以上、『「明治天皇紀」談話記録集成』)。
天皇の京都への愛着は、じっさい並々ならぬものがあった。食べ物でも京都方面から取り寄せたものを好み、魚では、若狭湾で取れた小鯛や鰈(かれい)、野菜では、嫁菜、蒲公英(たんぽぽ)、独活(うど)などをよく食べた。
食べ物でさえそうなのだから、里帰りは格別だった。1877年2月、24歳の天皇は、ひさしぶりに京都におもむいたおり、このように詠って喜びをあらわした。
東京に10年近く住んでも、天皇にとって京都は依然として「住みなれし花のみやこ」だった。だからこそ同じ初雪でも、まったく違ってみえた。
劣悪な環境でも意欲的だった地方巡幸
天皇は生涯で9万3032首もの御製を詠んだ。和歌は天皇にとって雑記であり、日記であった。巧拙は別として、そこには天皇の率直な感情があらわれている。天皇の裏表を知るには、これも活用しない手はない。
このように、天皇の言葉は文語体と京都弁で表裏にくっきり分かれていた。ただ、やがて統合の兆しもあらわれた。天皇も成長するなかで、政治への理解を深め、人物眼を磨き、君主として発言するようになってきたからである。
地方巡幸は、その大きなきっかけだった。若き天皇は、新政府の存在を知らしめることも兼ねて、積極的に地方を見て回った。なかでも、1872年から1885年までに行なわれた6回の地方巡幸は、六大巡幸として名高い。
当時の交通事情や宿泊環境は、現在とくらべものにならないほど劣悪だった。天皇といえども、昼は馬車や輿でひたすら蒸し暑さに耐え、夜は簡素な宿で大量の蚊と戦わなければならなかった。
ただ、天皇はそれに不平を述べず、むしろ意欲的に視察に臨み、民衆との接触から多くのことを学んだ。政治的な発言の数々はその証拠だった。